中も、たった三町ばかりの間に人力車《じんりきしゃ》を七台踏みつぶしたそうである。最後に社宅へ帰った後《のち》も、――何《なん》でも常子の話によれば、彼は犬のように喘《あえ》ぎながら、よろよろ茶の間《ま》へはいって来た。それからやっと長椅子《ながいす》へかけると、あっけにとられた細君に細引《ほそびき》を持って来いと命令した。常子は勿論夫の容子《ようす》に大事件の起ったことを想像した。第一顔色も非常に悪い。のみならず苛立《いらだ》たしさに堪えないように長靴《ながぐつ》の脚を動かしている。彼女はそのためにいつものように微笑《びしょう》することも忘れたなり、一体細引を何にするつもりか、聞かしてくれと歎願した。しかし夫《おっと》は苦しそうに額《ひたい》の汗を拭いながら、こう繰り返すばかりである。
「早くしてくれ。早く。――早くしないと、大変だから。」
常子はやむを得ず荷造りに使う細引を一束《ひとたば》夫へ渡した。すると彼はその細引に長靴の両脚を縛《しば》りはじめた。彼女の心に発狂と言う恐怖のきざしたのはこの時である。常子は夫を見つめたまま、震《ふる》える声に山井博士の来診《らいしん》を請うこと
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