り。」
「翁曰、俳諧世に三合は出《いで》たり。七合は残《のこり》たりと申されけり。」
 かう云ふ芭蕉の逸話を見ると、如何にも芭蕉は未来の俳諧を歴々と見透してゐたやうである。又大勢の門人の中には義理にも一変したいと工夫したり、残りの七合を拵《こしら》へるものは自分の外にないと己惚《うぬぼ》れたり、いろいろの喜劇も起つたかも知れぬ。しかしこれは「芭蕉自身の明日」を指した言葉であらう。と云ふのはつまり五六年も経《ふ》れば、芭蕉自身の俳諧は一変化すると云ふ意味であらう。或は又既に公《おほやけ》にしたのは僅々三合の俳諧に過ぎぬ、残りの七合の俳諧は芭蕉自身の胸中に横はつてゐると云ふ意味であらう。すると芭蕉以外の人には五六年は勿論、三百年たつても、一変化することは出来ぬかも知れぬ。七合の俳諧も同じことである。芭蕉は妄《みだり》に街頭の売卜《ばいぼく》先生を真似る人ではない。けれども絶えず芭蕉自身の進歩を感じてゐたことは確かである。――僕はかう信じて疑つたことはない。

     六 俗語

 芭蕉はその俳諧の中に屡《しばしば》俗語を用ひてゐる。たとへば下《しも》の句に徴《ちよう》するが好い。
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