の俳諧に執する心は死よりもなほ強かつたらしい。もしあらゆる執着に罪障を見出した謡曲の作者にこの一段を語つたとすれば、芭蕉は必ず行脚《あんぎや》の僧に地獄の苦艱を訴へる後《のち》ジテの役を与へられたであらう。
 かう云ふ情熱を世捨人に見るのは矛盾と云へば矛盾である。しかしこれは矛盾にもせよ、たまたま芭蕉の天才を物語るものではないであらうか? ゲエテは詩作をしてゐる時には Daemon に憑《つ》かれてゐると云つた。芭蕉も亦世捨人になるには余りに詩魔の翻弄《ほんろう》を蒙《かうむ》つてゐたのではないであらうか? つまり芭蕉の中の詩人は芭蕉の中の世捨人よりも力強かつたのではないであらうか?
 僕は世捨人になり了《おほ》せなかつた芭蕉の矛盾を愛してゐる。同時に又その矛盾の大きかつたことも愛してゐる。さもなければ深草《ふかくさ》の元政《げんせい》などにも同じやうに敬意を表したかも知れぬ。

     五 未来

「翁|遷化《せんげ》の年深川を出《いで》給ふ時、野坡《やは》問《とう》て云《いふ》、俳諧やはり今のごとく作し侍らんや。翁曰、しばらく今の風なるべし、五七《ごしち》年も過なば一変あらんとな
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