は我頬がまちを人に云がごとし」である。しかし芸術は頬がまちほど、何《なん》びとにもはつきりわかるものではない。いつも自作に自釈を加へるバアナアド・シヨウの心もちは芭蕉も亦多少は同感だつたであらう。
四 詩人
「俳諧なども生涯の道の草にしてめんどうなものなり」とは芭蕉の惟然《ゐねん》に語つた言葉である。その他俳諧を軽んじた口吻《こうふん》は時々門人に洩らしたらしい。これは人生を大夢と信じた世捨人の芭蕉には寧《むし》ろ当然の言葉である。
しかしその「生涯の道の草」に芭蕉ほど真剣になつた人は滅多《めつた》にゐないのに違ひない。いや、芭蕉の気の入れかたを見れば、「生涯の道の草」などと称したのはポオズではないかと思ふ位である。
「土芳《とはう》云《いふ》、翁|曰《いはく》、学ぶ事は常にあり。席に臨んで文台と我と間《かん》に髪《はつ》を入れず。思ふこと速《すみやか》に云《いひ》出《いで》て、爰《ここ》に至《いたり》てまよふ念なし。文台引おろせば即|反故《ほご》なりときびしく示さるる詞《ことば》もあり。或時は大木倒すごとし。鍔本《つばもと》にきりこむ心得、西瓜きるごとし。梨子《なし》
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