ち》に百年の春雨を感じてゐる。「蓬をのばす草の道」の気品の高いのは云ふを待たぬ。「無性さや」に起り、「かき起されし」とたゆたつた「調べ」にも柔媚《じうび》に近い懶《ものう》さを表はしてゐる。所詮蕪村の十二句もこの芭蕉の二句の前には如何《いかん》とも出来ぬと評する外はない。兎に角芭蕉の芸術的感覚は近代人などと称するものよりも、数等の洗練を受けてゐたのである。
九 画
東洋の詩歌は和漢を問はず、屡《しばしば》画趣を命にしてゐる。エポスに詩を発した西洋人はこの「有声の画」の上にも邪道の貼り札をするかも知れぬ。しかし「遙知郡斎夜《ハルカニシルグンサイノヨ》 凍雪封松竹《トウセツシヨウチクヲフウズ》 時有山僧来《トキニサンソウノキタルアリ》 懸燈独自宿《トウヲカケテドクジシユクス》」は宛然たる一幀《いつたう》の南画である。又「蔵並ぶ裏は燕のかよひ道」もおのづから浮世絵の一枚らしい。この画趣を表はすのに自在の手腕を持つてゐたのもやはり芭蕉の俳諧に見のがされぬ特色の一つである。
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涼しさやすぐに野松の枝のなり
夕顔や酔《ゑう》て顔出す窓《まど》の穴
山賤《やまが
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