の大力量も窺《うかが》はれることは事実である。成程|談林《だんりん》の諸俳人は、――いや、伊丹《いたみ》の鬼貫《おにつら》さへ芭蕉よりも一足先に俗語を使つてゐたかも知れぬ。けれども所謂平談俗話に錬金術を施《ほどこ》したのは正に芭蕉の大手柄である。
しかしこの著しい特色は同時に又俳諧に対する誤解を生むことにもなつたらしい。その一つは俳諧を解し易いとした誤解であり、その二つは俳諧を作り易いとした誤解である。俳諧の月並みに堕《だ》したのは、――そんなことは今更弁ぜずとも好い。月並みの喜劇は「芭蕉雑談」の中に子規|居士《こじ》も既に指摘してゐる。唯芭蕉の使つた俗語の精彩を帯びてゐたことだけは今日もなほ力説せねばならぬ。さもなければ所謂民衆詩人は不幸なるウオルト・ホイツトマンと共に、芭蕉をも彼等の先達の一人に数へ上げることを憚《はばか》らぬであらう。
七 耳
芭蕉の俳諧を愛する人の耳の穴をあけぬのは残念である。もし「調べ」の美しさに全然無頓着だつたとすれば、芭蕉の俳諧の美しさも殆ど半ばしかのみこめぬであらう。
俳諧は元来歌よりも「調べ」に乏しいものでもある。僅々十七字の活殺の
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