栗《みなしぐり》」(天和三年上梓)の跋《ばつ》の後に「芭蕉洞[#「洞」に白丸傍点]桃青」と署名してゐる。「芭蕉庵[#「庵」に白丸傍点]桃青」は必しも海彼岸の文学を聯想せしめる雅号ではない。しかし「芭蕉洞[#「洞」に白丸傍点]桃青」は「凝烟肌帯緑映日瞼粧紅《ギヨウエンキミドリヲオビヒニエイジテケンクレナヰヲヨソホフ》」の詩中の趣《おもむき》を具へてゐる。(これは勝峯晉風氏も「芭蕉俳句定本」の年譜の中に「洞[#「洞」に白丸傍点]の一字を見落してならぬ」と云つてゐる。)すると芭蕉は――少くとも延宝天和の間の芭蕉は、海彼岸の文学に少なからず心酔してゐたと云はなければならぬ。或は多少の危険さへ冒《をか》せば、談林風の鬼窟裡《きくつり》に堕在《だざい》してゐた芭蕉の天才を開眼《かいげん》したものは、海彼岸の文学であるとも云はれるかも知れない。かう云ふ芭蕉の俳諧の中に、海彼岸の文学の痕跡のあるのは、勿論不思議がるには当らない筈である。偶《たまたま》、「芭蕉俳句定本」を読んでゐるうちに、海彼岸の文学の影響を考へたから、「芭蕉雑記」の後に加へることにした。
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附記。芭蕉は夙《つと》に伊藤|坦庵《たんあん》、田中|桐江《とうかう》などの学者に漢学を学んだと伝へられてゐる。しかし芭蕉の蒙《かうむ》つた海彼岸の文学の影響は寧ろ好んで詩を作つた山口|素堂《そだう》に発するのかも知れない。
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十二 詩人
蕉風の付《つ》け合《あひ》に関する議論は樋口|功《いさを》氏の「芭蕉研究」に頗《すこぶ》る明快に述べられてゐる。尤も僕は樋口氏のやうに、発句は蕉門の竜象《りゆうざう》を始め蕪村も甚だ芭蕉には劣つてゐなかつたとは信ぜられない。が、芭蕉の付け合の上に古今独歩の妙のあることはまことに樋口氏の議論の通りである。のみならず元禄の文芸復興の蕉風の付け合に反映してゐたと云ふのは如何にも同感と云はなければならぬ。
芭蕉は少しも時代の外に孤立してゐた詩人ではない。いや、寧ろ時代の中に全精神を投じた詩人である。たまたまその間口の広さの芭蕉の発句に現れないのはこれも樋口氏の指摘したやうに発句は唯「わたくし詩歌」を本道とした為と云はなければならぬ。蕪村はこの金鎖《きんさ》を破り、発句を自他|無差別《むしやべつ》の大千世界《だいせんせかい》へ解放した。「お
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