ひんぴん》としてお君さんの手に落ちる艶書《えんしょ》のある事を心得ている。だからこの桃色をした紙も、恐らくはその一枚だろうと思って、好奇心からわざわざ眼を通して見た。すると意外にもこれは、お君さんの手蹟《しゅせき》らしい。ではお君さんが誰かの艶書に返事を認《したた》めたのかと思うと、「武男《たけお》さんに御別れなすった時の事を考えると、私は涙で胸が張り裂けるようでございます」と書いてある。果然お君さんはほとんど徹夜をして、浪子夫人《なみこふじん》に与うべき慰問の手紙を作ったのであった。――
 おれはこの挿話《そうわ》を書きながら、お君さんのサンティマンタリスムに微笑を禁じ得ないのは事実である。が、おれの微笑の中には、寸毫《すんごう》も悪意は含まれていない。お君さんのいる二階には、造花の百合《ゆり》や、「藤村《とうそん》詩集」や、ラファエルのマドンナの写真のほかにも、自炊《じすい》生活に必要な、台所道具が並んでいる。その台所道具の象徴する、世智辛《せちがら》い東京の実生活は、何度|今日《きょう》までにお君さんへ迫害を加えたか知れなかった。が、落莫《らくばく》たる人生も、涙の靄《もや》を透
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