ウイルソンなのだから、北村四海君に対しても、何とも御気の毒の至《いたり》に堪えない。――
こう云えばお君さんの趣味生活が、いかに芸術的色彩に富んでいるか、問わずしてすでに明かであろうと思う。また実際お君さんは、毎晩遅くカッフェから帰って来ると、必ずこのベエトオフェン alias ウイルソンの肖像の下に、「不如帰《ほととぎす》」を読んだり、造花の百合《ゆり》を眺めたりしながら、新派悲劇の活動写真の月夜の場面よりもサンティマンタアルな、芸術的感激に耽《ふけ》るのである。
桜頃《さくらごろ》のある夜、お君さんはひとり机に向って、ほとんど一番鶏《いちばんどり》が啼く頃まで、桃色をしたレタア・ペエパアにせっせとペンを走らせ続けた。が、その書き上げた手紙の一枚が、机の下に落ちていた事は、朝になってカッフェへ出て行った後《のち》も、ついにお君さんには気がつかなかったらしい。すると窓から流れこんだ春風《はるかぜ》が、その一枚のレタア・ペエパアを飜《ひるがえ》して、鬱金木綿《うこんもめん》の蔽《おお》いをかけた鏡が二つ並んでいる梯子段《はしごだん》の下まで吹き落してしまった。下にいる女髪結は、頻々《
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