》えながら、燐寸《マッチ》の火をその先へ移そうとした。所が生憎《あいにく》その隣の卓子《テエブル》では、煽風機《せんぷうき》が勢いよく廻っているものだから、燐寸の火はそこまで届かない内に、いつも風に消されてしまう。そこでその卓子《テエブル》の側を通りかかったお君さんは、しばらくの間《あいだ》風をふせぐために、客と煽風機との間へ足を止《と》めた。その暇に巻煙草へ火を移した学生が、日に焼けた頬《ほお》へ微笑を浮べながら、「難有《ありがと》う」と云った所を見ると、お君さんのこの親切が先方にも通じたのは勿論である。すると帳場の前へ立っていたお松さんが、ちょうどそこへ持って行く筈の、アイスクリイムの皿を取り上げると、お君さんの顔をじろりと見て、「あなた持っていらっしゃいよ。」と、嬌嗔《きょうしん》を発したらしい声を出した。――
 こんな葛藤《かっとう》が一週間に何度もある。従ってお君さんは、滅多にお松さんとは口をきかない。いつも自働ピアノの前に立っては、場所がらだけに多い学生の客に、無言の愛嬌《あいきょう》を売っている。あるいは業腹《ごうはら》らしいお松さんに無言ののろけを買わせている。
 が、
前へ 次へ
全21ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング