ば》下さいな。」と云った。
 埃風《ほこりかぜ》の吹く往来には、黒い鍔広《つばびろ》の帽子《ぼうし》をかぶって、縞《しま》の荒い半オオヴァの襟を立てた田中君が、洋銀の握りのある細い杖をかいこみながら、孤影|悄然《しょうぜん》として立っている。田中君の想像には、さっきからこの町のはずれにある、格子戸造《こうしどづくり》の家が浮んでいた。軒に松《まつ》の家《や》と云う電燈の出た、沓脱《くつぬ》ぎの石が濡れている、安普請《やすぶしん》らしい二階家である、が、こうした往来に立っていると、その小ぢんまりした二階家の影が、妙にだんだん薄くなってしまう。そうしてその後《あと》には徐《おもむろ》に一束四銭の札《ふだ》を打った葱《ねぎ》の山が浮んで来る。と思うとたちまち想像が破れて、一陣の埃風《ほこりかぜ》が過ぎると共に、実生活のごとく辛辣《しんらつ》な、眼に滲《し》むごとき葱の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》が実際田中君の鼻を打った。
「御待ち遠さま。」
 憐むべき田中君は、世にも情無《なさけな》い眼つきをして、まるで別人でも見るように、じろじろお君さんの顔を眺めた。髪を綺麗に
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