束《ひとたば》四銭《よんせん》」と書いてある。あらゆる物価が暴騰した今日《こんにち》、一束四銭と云う葱は滅多にない。この至廉《しれん》な札を眺めると共に、今まで恋愛と芸術とに酔っていた、お君さんの幸福な心の中には、そこに潜んでいた実生活が、突如としてその惰眠から覚めた。間髪《かんはつ》を入れずとは正にこの謂《いい》である。薔薇《ばら》と指環と夜鶯《ナイチンゲエル》と三越《みつこし》の旗とは、刹那に眼底を払って消えてしまった。その代り間代《まだい》、米代、電燈代、炭代、肴代《さかなだい》、醤油代、新聞代、化粧代、電車賃――そのほかありとあらゆる生活費が、過去の苦しい経験と一しょに、恰《あたか》も火取虫の火に集るごとく、お君さんの小さな胸の中に、四方八方から群《むらが》って来る。お君さんは思わずその八百屋の前へ足を止めた。それから呆気《あっけ》にとられている田中君を一人後に残して、鮮《あざやか》な瓦斯《ガス》の光を浴びた青物の中へ足を入れた。しかもついにはその華奢《きゃしゃ》な指を伸べて、一束四銭の札が立っている葱の山を指さすと、「さすらい」の歌でもうたうような声で、
「あれを二束《ふたた
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