絵葉書《えはがき》や日暦《ひごよみ》――すべてのものがお君さんの眼には、壮大な恋愛の歓喜をうたいながら、世界のはてまでも燦《きら》びやかに続いているかと思われる。今夜に限って天上の星の光も冷たくない。時々吹きつける埃風《ほこりかぜ》も、コオトの裾を巻くかと思うと、たちまち春が返ったような暖い空気に変ってしまう。幸福、幸福、幸福……
その内にふとお君さんが気がつくと、二人《ふたり》はいつか横町《よこちょう》を曲ったと見えて、路幅の狭い町を歩いている。そうしてその町の右側に、一軒の小さな八百屋《やおや》があって、明《あかる》く瓦斯《ガス》の燃えた下に、大根、人参《にんじん》、漬《つ》け菜《な》、葱《ねぎ》、小蕪《こかぶ》、慈姑《くわい》、牛蒡《ごぼう》、八《や》つ頭《がしら》、小松菜《こまつな》、独活《うど》、蓮根《れんこん》、里芋、林檎《りんご》、蜜柑の類が堆《うずたか》く店に積み上げてある。その八百屋の前を通った時、お君さんの視線は何かの拍子《ひょうし》に、葱の山の中に立っている、竹に燭奴《つけぎ》を挟んだ札《ふだ》の上へ落ちた。札には墨黒々《すみくろぐろ》と下手《へた》な字で、「一
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