でお君さんもほかに仕方がないから、すぐに田中君へ追いつくと、葉を振《ふる》った柳の並樹《なみき》の下を一しょにいそいそと歩き出した。するとまた田中君は、あの何とも判然しない微笑を眼の中に漂わせて、お君さんの横顔を窺《うかが》いながら、
「お君さんには御気の毒だけれどもね、芝浦のサアカスは、もう昨夜《ゆうべ》でおしまいなんだそうだ。だから今夜は僕の知っている家《うち》へ行って、一しょに御飯でも食べようじゃないか。」
「そう、私《わたし》どっちでも好いわ。」
 お君さんは田中君の手が、そっと自分の手を捕《とら》えたのを感じながら、希望と恐怖とにふるえている、かすかな声でこう云った。と同時にまたお君さんの眼にはまるで「不如帰《ほととぎす》」を読んだ時のような、感動の涙が浮んできた。この感動の涙を透《とお》して見た、小川町、淡路町《あわじちょう》、須田町の往来が、いかに美しかったかは問うを待たない。歳暮《せいぼ》大売出しの楽隊の音、目まぐるしい仁丹《じんたん》の広告電燈、クリスマスを祝う杉の葉の飾《かざり》、蜘蛛手《くもで》に張った万国国旗、飾窓《かざりまど》の中のサンタ・クロス、露店に並んだ
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