ちゃんと佇《たたず》んで待っている。色の白い顔がいつもより一層また磨きがかかって、かすかに香水の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》までさせている容子《ようす》では、今夜は格別身じまいに注意を払っているらしい。
「御待たせして?」
 お君さんは田中君の顔を見上げると、息のはずんでいるような声を出した。
「なあに。」
 田中君は大様《おおよう》な返事をしながら、何とも判然しない微笑を含んだ眼で、じっとお君さんの顔を眺めた。それから急に身ぶるいを一つして、
「歩こう、少し。」
とつけ加えた。いや、つけ加えたばかりではない。田中君はもうその時には、アアク燈に照らされた人通りの多い往来を、須田町《すだちょう》の方へ向って歩き出した。サアカスがあるのは芝浦《しばうら》である。歩くにしてもここからは、神田橋《かんだばし》の方へ向って行かなければならない。お君さんはまだ立止ったまま、埃風《ほこりかぜ》に飜《ひるがえ》るクリイム色の肩掛へ手をやって、
「そっち?」
と不思議そうに声をかけた。が、田中君は肩越しに、
「ああ。」
と軽く答えたぎり、依然として須田町の方へ歩いて行く。そこ
前へ 次へ
全21ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング