世間の恋人同士のように、つれ立って夜の曲馬《きょくば》を見に行く事を考えると、今更のように心臓の鼓動《こどう》が高くなって来る。お君さんにとって田中君は、宝窟《ほうくつ》の扉を開くべき秘密の呪文《じゅもん》を心得ているアリ・ババとさらに違いはない。その呪文が唱えられた時、いかなる未知の歓楽境がお君さんの前に出現するか。――さっきから月を眺めて月を眺めないお君さんが、風に煽《あお》られた海のごとく、あるいはまた将《まさ》に走らんとする乗合自動車のモオタアのごとく、轟く胸の中に描いているのは、実にこの来るべき不可思議《ふかしぎ》の世界の幻であった。そこには薔薇《ばら》の花の咲き乱れた路《みち》に、養殖真珠の指環《ゆびわ》だの翡翠《ひすい》まがいの帯止めだのが、数限りもなく散乱している。夜鶯《ナイチンゲエル》の優しい声も、すでに三越《みつこし》の旗の上から、蜜を滴《したたら》すように聞え始めた。橄欖《かんらん》の花の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にお》いの中に大理石を畳んだ宮殿では、今やミスタア・ダグラス・フェアバンクスと森律子嬢《もりりつこじょう》との舞踏が、いよいよ佳境
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