に入ろうとしているらしい。……
が、おれはお君さんの名誉のためにつけ加える。その時お君さんの描いた幻の中には、時々暗い雲の影が、一切《いっさい》の幸福を脅《おびやか》すように、底気味悪く去来していた。成程お君さんは田中君を恋しているのに違いない。しかしその田中君は、実はお君さんの芸術的感激が円光を頂《いただ》かせた田中君である。詩も作る、ヴァイオリンも弾《ひ》く、油絵の具も使う、役者も勤める、歌骨牌《うたがるた》も巧《うま》い、薩摩琵琶も出来るサア・ランスロットである。だからお君さんの中にある処女《しょじょ》の新鮮な直観性は、どうかするとこのランスロットのすこぶる怪しげな正体を感ずる事がないでもない。暗い不安の雲の影は、こう云う時にお君さんの幻の中を通りすぎる。が、遺憾ながらその雲の影は、現れるが早いか消えてしまう。お君さんはいくら大人《おとな》じみていても、十六とか十七とか云う少女である。しかも芸術的感激に充ち満ちている少女である。着物を雨で濡らす心配があるか、ライン河の入日の画端書《えはがき》に感嘆の声を洩《も》らす時のほかは、滅多《めった》に雲の影などへ心を止《と》めないのも不
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