ければ、そう云う場所へ行って見るが好《い》い。おれが書くのはもう真平御免《まっぴらごめん》だ。第一おれが田中君の紹介の労を執《と》っている間に、お君さんはいつか立上って、障子を開けた窓の外の寒い月夜を眺めているのだから。
 瓦屋根《かわらやね》の上の月の光は、頸《くび》の細い硝子《ガラス》の花立てにさした造花の百合《ゆり》を照らしている。壁に貼ったラファエルの小さなマドンナを照らしている。そうしてまたお君さんの上を向いた鼻を照らしている。が、お君さんの涼しい眼には、月の光も映っていない。霜の下りたらしい瓦屋根も、存在しないのと同じ事である。田中君は今夜カッフェから、お君さんをここまで送って来た。そうして明日《あす》の晩は二人で、楽しく暮そうと云う約束までした。明日はちょうど一月に一度あるお君さんの休日《やすみび》だから、午後六時に小川町《おがわまち》の電車停留場で落合って、それから芝浦《しばうら》にかかっている伊太利人《イタリイじん》のサアカスを見に行こうと云うのである。お君さんは今日《きょう》までに、未嘗《いまだかつて》男と二人で遊びに出かけた覚えなどはない。だから明日の晩田中君と、
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