ったのを覚えている。
「じゃまた遊びに来る。兄さんによろしく。」
彼の妹は不相変《あいかわらず》赤児に乳房を含ませたまま、しとやかに僕等に挨拶《あいさつ》した。
「さようですか? では皆さんによろしく。どうもお下駄《げた》も直しませんで。」
僕等はもう日の暮に近い本所の町を歩いて行った。彼も始めて顔を合せた彼の妹の心もちに失望しているのに違いなかった。が、僕等は言い合せたように少しもその気もちを口にしなかった。彼は、――僕は未《いま》だに覚えている。彼はただ道に沿うた建仁寺垣《けんにんじがき》に指を触《ふ》れながら、こんなことを僕に言っただけだった。
「こうやってずんずん歩いていると、妙に指が震《ふる》えるもんだね。まるでエレキでもかかって来るようだ。」
三
彼は中学を卒業してから、一高《いちこう》の試験を受けることにした。が、生憎《あいにく》落第《らくだい》した。彼があの印刷屋の二階に間借《まが》りをはじめたのはそれからである。同時にまたマルクスやエンゲルスの本に熱中しはじめたのもそれからである。僕は勿論社会科学に何《なん》の知識も持っていなかった。が、資本
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