ュメルツがあると云うような事を云う男だから、僕の読んでいる本に李太白の名がないと、大《おおい》に僕を軽蔑した。そこで僕も黙っていると負けた事にされるから暑いのを我慢して、少し議論をした。どうせ暇つぶしにやる議論だから勝っても負けても、どちらでも差支《さしつか》えない。その中《うち》に赤木は、「一体支那人は本へ朱《しゅ》で圏点《けんてん》をつけるのが皆うまい。日本人にやとてもああ円くは出来ないから、不思議だ。」と、つまらない事を感心し出した。朱でまるを描《か》くくらいなら、己《おれ》だって出来ると思ったが、うっかりそんな事を云うと、すぐ「じゃ、やって見ろ。」ぐらいな事になり兼ねないから、「成程《なるほど》そうかね。」とまず敬して遠ざけて置いた。
 日の暮れ方に、二人《ふたり》で湯にはいって、それから、自笑軒《じしょうけん》へ飯を食いに行った。僕はそこで一杯の酒を持ちあつかいながら、赤木に大倉喜八郎《おおくらきはちろう》と云う男が作った小唄の話をしてやった。何がどうとかしてござりんすと云う、大へんな小唄である。文句《もんく》も話した時は覚えていたが、もうすっかり忘れてしまった。赤木は、これも二三杯の酒で赤くなって、へええ、聞けば聞くほど愚劣だねと、大《おおい》にその作者を罵倒していた。
 かえりに、女中が妙な行燈《あんどう》に火を入れて、門《かど》まで送って来たら、その行燈に白い蛾《が》が何匹もとんで来た。それが甚《はなはだ》、うつくしかった。
 外へ出たら、このまま家へかえるのが惜しいような気がしたから、二人《ふたり》で電車へ乗って、桜木町《さくらぎちょう》の赤木の家へ行った。見ると石の門があって、中に大きな松の木があって、赤木には少し勿体《もったい》ないような家だから、おい家賃はいくらすると訊《き》いて見たが、なに存外安いよとか何とか、大に金のありそうな事を云ってすましている。それから、籐椅子《とういす》に尻を据えて、勝手な気焔《きえん》をあげていると、奥さんが三《み》つ指《ゆび》で挨拶に出て来られたのには、少からず恐縮した。
 すると、向うの家の二階で、何だか楽器を弾《ひ》き出した。始《はじめ》はマンドリンかと思ったが、中ごろから、赤木があれは琴《こと》だと道破《どうは》した。僕は琴にしたくなかったから、いや二絃琴《にげんきん》だよと異《い》を樹《た》てた。しばら
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