重子も是非《ぜひ》一しょに行けと云う、これは僕が新橋の芸者なるものを見た事がないから、その序《ついで》に見せてやろうと云う厚意なのだそうである。僕は八重子に、「お前と一しょに行くと、御夫婦だと思われるからいやだよ。」と云って外へ出た。そうしたら、うしろで「いやあだ。」と云う声と、猪口《ちょく》の糸底《いとぞこ》ほどの唇《くちびる》を、反《そ》らせて見せるらしいけはいがした。
外濠線《そとぼりせん》へ乗って、さっき買った本をいい加減にあけて見ていたら、その中に春信《はるのぶ》論が出て来て、ワットオと比較した所が面白かったから、いい気になって読んでいると、うっかりしている間《あいだ》に、飯田橋《いいだばし》の乗換えを乗越して新見附《しんみつけ》まで行ってしまった。車掌にそう云うのも業腹《ごうはら》だから、下りて、万世橋行《まんせいばしゆき》へ乗って、七時すぎにやっと満足に南町へ行った。
南町で晩飯の御馳走《ごちそう》になって、久米《くめ》と謎々《なぞなぞ》論をやっていたら、たちまち九時になった。帰りに矢来《やらい》から江戸川の終点へ出ると、明《あ》き地にアセチリン瓦斯《ガス》をともして、催眠術の本を売っている男がある。そいつが中々|※[#「足へん+卓」、第4水準2−89−35]※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]風発《たくれいふうはつ》しているから、面白がって前の方へ出て聞いていると、あなたを一つかけて上げましょうと云われたので、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》退却した。こっちの興味に感ちがいをする人間ほど、人《ひと》迷惑なものはない。
家へ帰ったら、留守《るす》に来た手紙の中に成瀬《なるせ》のがまじっている。紐育《ニュウヨオク》は暑いから、加奈陀《カナダ》へ行《ゆ》くと書いてある。それを読んでいると久しぶりで成瀬と一しょにあげ足のとりっくらでもしたくなった。
二十九日
朝から午《ひる》少し前まで、仕事をしたら、へとへとになったから、飯を食って、水風呂《みずぶろ》へはいって、漫然《まんぜん》と四角な字ばかり並んだ古本をあけて読んでいると、赤木桁平《あかぎこうへい》が、帷子《かたびら》の上に縞絽《しまろ》の羽織か何かひっかけてやって来た。
赤木は昔から李太白《りたいはく》が贔屓《ひいき》で、将進酒《しょうしんしゅ》にはウェルトシ
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