なってしまったらしい。
 大野さんが帰ったあとで湯にはいって、飯を食って、それから十時頃まで、調べ物をした。

 二十八日
 涼しいから、こう云う日に出なければ出る日はないと思って、八時頃うちを飛び出した。動坂《どうざか》から電車に乗って、上野《うえの》で乗換えて、序《ついで》に琳琅閣《りんろうかく》へよって、古本をひやかして、やっと本郷《ほんごう》の久米《くめ》の所へ行った。すると南町《みなみちょう》へ行って、留守《るす》だと云うから本郷通りの古本屋を根気《こんき》よく一軒一軒まわって歩いて、横文字の本を二三冊買って、それから南町へ行くつもりで三丁目から電車に乗った。
 ところが電車に乗っている間《あいだ》に、また気が変ったから今度は須田町《すだちょう》で乗換えて、丸善《まるぜん》へ行った。行って見ると狆《ちん》を引張った妙な異人の女が、ジェコブの小説はないかと云って、探している。その女の顔をどこかで見たようだと思ったら、四五日|前《まえ》に鎌倉で泳いでいるのを見かけたのである。あんな崔嵬《さいかい》たる段鼻は日本人にもめったにない。それでも小僧さんは、レディ・オヴ・ザ・バアジならございますとか何とか、丁寧《ていねい》に挨拶していた。大方《おおかた》この段鼻も涼しいので東京へ出て来たのだろう。
 丸善に一時間ばかりいて、久しぶりで日吉町《ひよしちょう》へ行ったら、清《きよし》がたった一人《ひとり》で、留守番をしていた。入学試験はどうしたいと尋《き》いて見たら、「ええ、まあ。」と云いながら、坊主頭《ぼうずあたま》を撫でて、にやにやしている。それから暇つぶしに清を相手にして、五目《ごもく》ならべをしたら、五番の中四番ともまかされた。
 その中《うち》に皆帰って来たから、一しょに飯を食って、世間話をしていると、八重子《やえこ》が買いたての夏帯を、いいでしょうと云って見せに来た。面倒臭いから、「うんいいよ、いいよ。」と云っていると、わざわざしめていた帯をしめかえて、「ああしめにくい。」と顔をしかめている。「しめにくければ、買わなければいいのに。」と云ったら、すぐに「大きなお世話だわ。」とへこまされた。
 日暮方に、南町へ電話をかけて置いて、帰ろうとしたら、清が「今夜|皆《みんな》で金春館《こんぱるかん》へ行こうって云うんですがね。一しょに行《い》きませんか。」と云った。八
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