とは幸ひにもまだ一度もなし。
鹿島龍蔵《かしまりゆうざう》 これも親子ほど年の違ふ実業家なり。少年西洋に在りし為、三味線《しやみせん》や御神燈《ごしんとう》を見ても遊蕩《いうたう》を想はず、その代りに艶《なまめ》きたるランプ・シエエドなどを見れば、忽ち遊蕩を想《おも》ふよし。書、篆刻《てんこく》、謡《うたひ》、舞《まひ》、長唄、常盤津《ときはず》、歌沢《うたざは》、狂言、テニス、氷辷《こほりすべ》り等《とう》通ぜざるものなしと言ふに至つては、誰か唖然《あぜん》として驚かざらんや。然れども鹿島さんの多芸なるは僕の尊敬するところにあらず。僕の尊敬する所は鹿島さんの「人となり」なり。鹿島さんの如く、熟して敗《やぶ》れざる底《てい》の東京人は今日《こんにち》既に見るべからず。明日《みやうにち》は更《さら》に稀《まれ》なるべし。僕は東京と田舎《ゐなか》とを兼ねたる文明的混血児なれども、東京人たる鹿島さんには聖賢相親しむの情――或は狐狸《こり》相親しむの情を懐抱《くはいはう》せざる能《あた》はざるものなり。鹿島さんの再び西洋に遊ばんとするに当り、活字を以て一言《いちげん》を餞《はなむけ》す。あん
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