]ふと僕にしても、他人の廡下《ぶか》には立たぬ位な、一人前《いちにんまへ》の自惚《うぬぼ》れは持たぬではない。が、物の考へ方や感じ方の上で見れば、やはり何処《どこ》か囚はれてゐる。(時代の影響と云ふ意味ではない。もつと膚浅《ふせん》な囚はれ方である。)僕はそれが不愉快でならぬ。だから百間氏の小品のやうに、自由な作物にぶつかると、余計《よけい》僕には面白いのである。しかし人の話を聞けば、「冥途《めいど》」の評判は好《よ》くないらしい。偶《たまたま》僕の目に触れた或新聞の批評家なぞにも、全然あれがわからぬらしかつた。これは一方現状では、尤《もつと》ものやうな心もちがする。同時に又一方では、尤もでないやうな心もちもする。(一月十日)

     長井代助

 我々と前後した年齢の人々には、漱石《そうせき》先生の「それから」に動かされたものが多いらしい。その動かされたと云ふ中でも、自分が此処《ここ》に書きたいのは、あの小説の主人公|長井代助《ながゐだいすけ》の性格に惚《ほ》れこんだ人々の事である。その人々の中には惚れこんだ所《どころ》か、自《みづか》ら代助を気取つた人も、少くなかつた事と思ふ。
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