は来合せていた芸者が一人、じっと僕を見下ろしていた。僕は黙って段梯子を下り、玄関の外のタクシイに乗った。タクシイはすぐに動き出した。が、僕は僕の父よりも水々しい西洋髪に結った彼女の顔を、――殊に彼女の目を考えていた。
僕が病院へ帰って来ると、僕の父は僕を待ち兼ねていた。のみならず二枚折の屏風《びょうぶ》の外に悉く余人を引き下らせ、僕の手を握ったり撫《な》でたりしながら、僕の知らない昔のことを、――僕の母と結婚した当時のことを話し出した。それは僕の母と二人で箪笥《たんす》を買いに出かけたとか、鮨《すし》をとって食ったとか云う、瑣末《さまつ》な話に過ぎなかった。しかし僕はその話のうちにいつか※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》が熱くなっていた。僕の父も肉の落ちた頬《ほお》にやはり涙を流していた。
僕の父はその次の朝に余り苦しまずに死んで行った。死ぬ前には頭も狂ったと見え「あんなに旗を立てた軍艦が来た。みんな万歳を唱えろ」などと言った。僕は僕の父の葬式がどんなものだったか覚えていない。唯《ただ》僕の父の死骸《しがい》を病院から実家へ運ぶ時、大きい春の月が一つ、僕の父の柩車
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