《ろうか》へ出ると、すぐに妻を一人残して、小用《こよう》を足しに参りました。申上げるまでもなく、その時分には、もう廻りの狭い廊下が、人で一ぱいになって居ります。私はその人の間を縫いながら、便所から帰って参りましたが、あの弧状になっている廊下が、玄関の前へ出る所で、予期した通り私の視線は、向うの廊下の壁によりかかるようにして立っている、妻の姿に落ちました。妻は、明い電燈の光がまぶしいように、つつましく伏眼《ふしめ》になりながら、私の方へ横顔を向けて、静に立っているのでございます。が、それに別に不思議はございません。私が私の視覚の、同時にまた私の理性の主権《しゅけん》を、ほとんど刹那に粉砕しようとする恐ろしい瞬間にぶつかったのは、私の視線が、偶然――と申すよりは、人間の知力を超越した、ある隠微な原因によって、その妻の傍《かたわら》に、こちらを後《うしろ》にして立っている、一人の男の姿に注がれた時でございました。
 閣下《かっか》、私は、その時その男に始めて私自身を認めたのでございます。
 第二の私は、第一の私と同じ羽織を着て居りました。第一の私と同じ袴《はかま》を穿《は》いて居りました。そ
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