《ろうか》へ出ると、すぐに妻を一人残して、小用《こよう》を足しに参りました。申上げるまでもなく、その時分には、もう廻りの狭い廊下が、人で一ぱいになって居ります。私はその人の間を縫いながら、便所から帰って参りましたが、あの弧状になっている廊下が、玄関の前へ出る所で、予期した通り私の視線は、向うの廊下の壁によりかかるようにして立っている、妻の姿に落ちました。妻は、明い電燈の光がまぶしいように、つつましく伏眼《ふしめ》になりながら、私の方へ横顔を向けて、静に立っているのでございます。が、それに別に不思議はございません。私が私の視覚の、同時にまた私の理性の主権《しゅけん》を、ほとんど刹那に粉砕しようとする恐ろしい瞬間にぶつかったのは、私の視線が、偶然――と申すよりは、人間の知力を超越した、ある隠微な原因によって、その妻の傍《かたわら》に、こちらを後《うしろ》にして立っている、一人の男の姿に注がれた時でございました。
 閣下《かっか》、私は、その時その男に始めて私自身を認めたのでございます。
 第二の私は、第一の私と同じ羽織を着て居りました。第一の私と同じ袴《はかま》を穿《は》いて居りました。そうしてまた、第一の私と、同じ姿勢を装《よそお》って居りました。もしそれがこちらを向いたとしたならば、恐らくその顔もまた、私と同じだった事でございましょう。私はその時の私の心もちを、何と形容していいかわかりません。私の周囲には大ぜいの人間が、しっきりなしに動いて居ります。私の頭の上には多くの電燈が、昼のような光を放って居ります。云わば私の前後左右には、神秘と両立し難い一切の条件が、備っていたとでも申しましょうか。そうして私は実に、そう云う外界の中に、突然この存在以外の存在を、目前に見たのでございます。私の錯愕《さくがく》は、そのために、一層驚くべきものになりました。私の恐怖は、そのために、一層恐るべきものになりました。もし妻がその時眼をあげて、私の方を一瞥《いちべつ》しなかったなら、私は恐らく大声をあげて、周囲の注意をこの奇怪な幻影に惹《ひ》こうとした事でございましょう。
 しかし、妻の視線は、幸にも私の視線と合しました。そうして、それとほとんど同時に、第二の私は丁度|硝子《ガラス》に亀裂《きれつ》の入るような早さで、見る間に私の眼界から消え去ってしまいました。私は、夢遊病患者《ソムナン
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