ざる。よって翁は下賤《げせん》の悲しさに、御身《おんみ》近うまいる事もかない申さぬ。今宵は――」と云いかけながら、急に皮肉な調子になって、「今宵は、御行水《ごぎょうずい》も遊ばされず、且つ女人《にょにん》の肌に触れられての御誦経《ごずきょう》でござれば、諸々《もろもろ》の仏神も不浄を忌《い》んで、このあたりへは現《げん》ぜられぬげに見え申した。されば、翁も心安う見参《げんざん》に入り、聴聞の御礼申そう便宜を、得たのでござる。」
「何とな。」
道命阿闍梨《どうみょうあざり》は、不機嫌らしく声をとがらせた。道祖神《さえのかみ》は、それにも気のつかない容子《ようす》で、
「されば、恵心《えしん》の御房《ごぼう》も、念仏読経|四威儀《しいぎ》を破る事なかれと仰せられた。翁の果報《かほう》は、やがて御房の堕獄《だごく》の悪趣と思召され、向後《こうご》は……」
「黙れ。」
阿闍梨は、手頸《てくび》にかけた水晶の念珠をまさぐりながら、鋭く翁の顔を一眄《いちべん》した。
「不肖ながら道命は、あらゆる経文論釈に眼《まなこ》を曝した。凡百《ぼんびゃく》の戒行徳目《かいぎょうとくもく》も修せなんだものは
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