も、烏帽子《えぼし》の紐を長くむすび下げた物ごしは満更《まんざら》狐狸《こり》の変化《へんげ》とも思われない。殊に黄色い紙を張った扇を持っているのが、灯《あかり》の暗いにも関らず気高《けだか》くはっきりと眺められた。
「翁《おきな》とは何の翁じゃ。」
「おう、翁とばかりでは御合点《ごがてん》まいるまい。ありようは、五条の道祖神《さえのかみ》でござる。」
「その道祖神が、何としてこれへ見えた。」
「御経を承《うけたま》わり申した嬉しさに、せめて一語《ひとこと》なりとも御礼申そうとて、罷《まか》り出《いで》たのでござる。」
 阿闍梨は不審らしく眉をよせた。
「道命《どうみょう》が法華経を読み奉るのは、常の事じゃ。今宵に限った事ではない。」
「されば。」
 道祖神《さえのかみ》は、ちょいと語を切って、種々《しょうしょう》たる黄髪《こうはつ》の頭を、懶《ものう》げに傾けながら不相変《あいかわらず》呟くような、かすかな声で、
「清くて読み奉らるる時には、上《かみ》は梵天帝釈《ぼんてんたいしゃく》より下《しも》は恒河沙《こうがしゃ》の諸仏菩薩まで、悉《ことごと》く聴聞《ちょうもん》せらるるものでご
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