※[#「田+宛」、第3水準1−88−43]《ぎよくゑん》の蘭を生み、芭蕉《ばせを》の句を生んだ精神である。煎茶《せんちや》の宗匠《さうしやう》や、漢詩人などの東洋趣味と、一緒《いつしよ》にされて堪るものではない。
問 佐藤春夫《さとうはるを》氏は風流を感覚だと云ひ、久米正雄《くめまさを》氏はそれを意志だと云つて居ますが、それに就《つ》いてのお考は如何《いかが》でせうか。
答 それは感覚と云ふ言葉の意味や、意志と云ふ言葉の意味を、はつきり制限して貰はないと、僕にはどちらにも左袒《さたん》出来ない。あらゆる芸術は感覚的である。同時に又あらゆる芸術は、意志的である。だから、風流は意志だと云ふ説も、ある意味では成立つと同時に、風流は感覚だと云ふ説も、矢張《やは》りある意味ではなりたつだらう。僕はまだ両氏の議論を読んで居《ゐ》ない。両氏はどの位感覚と意志とを別のものにして、論ずる事が出来たかそれを見る時を楽しみにして居る。
問 行為を主としたものと、心境を主としたものとの差別が文芸上には、ありませんでせうか。
答 主として事件を書いたものと、主として心境を書いたものの差別は、あると思ふ。
問 そ
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