れで、事件を主としたものが西洋的に、心境を主としたものが東洋的と云へるでせうか。
答 水滸伝《すゐこでん》でも、槍《やり》の権三《ごんざ》でも、皆事件を主にして居る。しかし矢張《やは》り東洋的である。ゲエテの「さ迷へる人の歌」のやうなものは、心境を主として居る。しかし矢張り西洋的である。心境と事件とか云ふやうなものでは、東洋と西洋の区別を、大ざつぱにさへ出来ないと思ふ。要するにその作者次第だと思ふ。
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問 将来の日本の文芸はどうなるでせうか。西洋的になるでせうか。又東洋的になるでせうか。
答 それはどつちになるかわからない。しかしこれだけは確実である。若し将来、西洋人が日本の文芸を珍重《ちんちよう》するとすれば、東洋的の文芸を珍重するだらう。例へば、形容の言葉にしても、「孔雀《くじやく》のやうに傲慢《がうまん》な女」と云ふのは日本人には新しい感じを与へても、西洋人には新しい感じを与へない。逆に「瓜実顔《うりざねがほ》の女」と云ふのは、日本人には珍しくないが、西洋人には珍しいだらう。一つの形容の言葉に
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