声《けうせい》を捕へる事が出来た。さうしてそれを耳にすると共に、彼は恰《あたか》も天使の楽声《がくせい》を聞いた聖徒《セエント》のやうに昏々《こんこん》として意識を失つてしまつたのである。
 Hは翌日の午前十時頃になつて、やつと正気《しやうき》に返る事が出来た。彼はその御茶屋の一室で厚い絹布《けんぷ》の夜具に包まれて、横になつてゐる彼自身を見出した時、すべてが恰《あたか》も一世紀以前の出来事の如く感ぜられた。が、その中でも自分に接吻した芸者の姿ばかりは歴々として眼底に浮んで来た。今夜にもここへ来て、あの芸者に口をかけたら、きつと何を措《お》いても飛んで来るのに違ひない。彼はさう思つて、勢ひよく床の中から躍り出た。が、酒に洗はれた彼の頭脳には、どうしてもその芸者の名が浮んで来ない。名前もわからない芸者に口がかけられないのは、まだ日本の土を踏んで間《ま》もない彼と雖《いへど》も明白である。彼は床の上に坐つた儘、着換をする元気も失つて、悵然《ちやうぜん》と徒《いたづ》らに長い手足を見廻した。――
「だから、その晩の下足札《げそくふだ》を一枚貰つて来たんだ。これだつてあの芸者の記念品《スヴニイ
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