障子《しやうじ》の外へ出た。外には閑静な中庭が石燈籠《いしどうろう》に火を入れて、ひつそりと竹の暗をつくつてゐる。Hは朦朧《もうろう》たる酔眼《すゐがん》にこの景色を眺めると、如何《いか》にも日本らしい好《い》い心もちに浸《ひた》る事が出来た。が、この日本情調が彼のエキゾテイシズムを満足させたのは、ほんの一瞬間の事だつたらしい。何故《なぜ》と云ふと彼が廊下《らうか》へ出るか出ないのに、後《あと》を追つてするすると裾を引いて来た芸者の一人《ひとり》が突然彼の頸《くび》へ抱《だ》きついたからである。さうして彼の酒臭い脣《くちびる》へ潔《いさぎよ》い接吻をした。勿論《もちろん》それはさつきから、彼に秋波を送つてゐる芸者だつた。彼は大《おほい》に嬉しかつたから、両手でしつかりその芸者を抱いた。
ここまでは万事が頗《すこぶ》る理想的に発展したが、遺憾ながら抱《だ》くと同時に、急に胸がむかついて来て、Hはその儘その廊下へ甚だ尾籠《びろう》ながら嘔吐《へど》を吐いてしまつた。しかしその瞬間に彼の鼓膜《こまく》は「私はX子と云ふのよ。今度御独りでいらしつた時、呼んで頂戴」と云ふ宛転《ゑんてん》たる嬌
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