んきよ》様をつかまへて「あなた、仏蘭西《フランス》語を知つていらつしやる」などととんでもない事を尋ねたりした。そこで奥さんも絵本を渡したり、ハモニカをあてがつたり、いろいろ退屈させない心配をしたが、とうとうしまひに懐鏡《ふところかがみ》を持たせて置くと、意外にも道中《だうちう》おとなしく坐つてゐる事実を発見した。千枝ちやんはその鏡を覗《のぞ》きこんで、白粉《おしろい》を直したり、髪を掻《か》いたり、或は又わざと顔をしかめて見り、鏡の中の自分を相手にして、何時《いつ》までも遊んでゐるからである。
 奥さんはかう鏡を渡した因縁《いんねん》を説明して、「やつぱり子供ですわね。鏡さへ見てゐれば、それでもう何も忘れてゐられるんですから。」とつけ加へた。
 自分は刹那《せつな》の間《あひだ》、この奥さんに軽い悪意を働かせた。さうして思はず笑ひながら、こんな事を云つて冷評《ひやか》した。
「あなただつて鏡さへ見てゐれば、それでもう何も忘れてゐられるんぢやありませんか。千枝《ちえ》ちやんと違ふのは、退屈なのが汽車の中と世の中だけの差別ですよ。」

     下足札

 これも或松の内の事である。Hと云
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