るいは岩を平四郎と名づけ」、一心に練磨《れんま》を積んだのである。
 すると天保《てんぽう》十年頃意外にも服部平四郎は突然|往《ゆ》くえを晦《くら》ましてしまった。もっともこれは伝吉につけ狙《ねら》われていることを知ったからではない。ただあらゆる浮浪人のようにどこかへ姿を隠してしまったのである。伝吉は勿論|落胆《らくたん》した。一時は「神ほとけも讐《かたき》の上を守らせ給うか」とさえ歎息した。この上|仇《あだ》を返そうとすればまず旅に出なければならない。しかし当てもない旅に出るのは現在の伝吉には不可能である。伝吉は烈しい絶望の余り、だんだん遊蕩《ゆうとう》に染まり出した。「農家義人伝」はこの変化を「交《まじわり》を博徒《ばくと》に求む、蓋《けだ》し讐《かたき》の所在を知らんと欲する也」と説明している。これもまたあるいは一解釈かも知れない。
 伝吉はたちまち枡屋《ますや》を逐《お》われ、唐丸《とうまる》の松《まつ》と称された博徒|松五郎《まつごろう》の乾児《こぶん》になった。爾来《じらい》ほとんど二十年ばかりは無頼《ぶらい》の生活を送っていたらしい。(註五)「木《こ》の葉《は》」はこの間
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