つて、云はゞ溺れかゝつた人間が水の中で呻《うな》るやうに、かやうな事を申すのでございます。
「なに、己に来いと云ふのだな。――どこへ――どこへ来いと? 奈落へ来い。炎熱地獄へ来い。――誰だ。さう云ふ貴様は。――貴様は誰だ――誰だと思つたら」
 弟子は思はず絵の具を溶く手をやめて、恐る/\師匠の顔を、覗くやうにして透して見ますと、皺だらけな顔が白くなつた上に大粒《おほつぶ》な汗を滲《にじ》ませながら、唇の干《かわ》いた、歯の疎《まばら》な口を喘《あへ》ぐやうに大きく開けて居ります。さうしてその口の中で、何か糸でもつけて引張つてゐるかと疑ふ程、目まぐるしく動くものがあると思ひますと、それがあの男の舌だつたと申すではございませんか。切れ切れな語は元より、その舌から出て来るのでございます。
「誰だと思つたら――うん、貴様だな。己も貴様だらうと思つてゐた。なに、迎へに来たと? だから来い。奈落へ来い。奈落には――奈落には己の娘が待つてゐる。」
 その時、弟子の眼には、朦朧とした異形《いぎやう》の影が、屏風の面《おもて》をかすめてむらむらと下りて来るやうに見えた程、気味の悪い心もちが致したさうでご
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