なかった。のみならずまだ新しい紺暖簾《こんのれん》の紋も蛇《じゃ》の目《め》だった。僕らは時々この店へ主人の清正を覗《のぞ》きに行った。清正は短い顋髯《あごひげ》を生《は》やし、金槌《かなづち》や鉋《かんな》を使っていた。けれども何か僕らには偉そうに思われてしかたがなかった。
三三 七不思議
そのころはどの家もランプだった。したがってどの町も薄暗かった。こういう町は明治とは言い条、まだ「本所《ほんじょ》の七不思議」とは全然縁のないわけではなかった。現に僕は夜学の帰りに元町通りを歩きながら、お竹倉の藪《やぶ》の向こうの莫迦囃《ばかばや》しを聞いたのを覚えている。それは石原か横網かにお祭りのあった囃しだったかもしれない。しかし僕は二百年来の狸《たぬき》の莫迦囃しではないかと思い、一刻も早く家へ帰るようにせっせと足を早めたものだった。
三四 動員令
僕は例の夜学の帰りに本所《ほんじょ》警察署の前を通った。警察署の前にはいつもと変わり、高張り提灯《ぢょうちん》が一対ともしてあった。僕は妙に思いながら、父や母にそのことを話した。が、誰《だれ》も驚かなかった。それは
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