程ゐやすけれど、あの位《くれえ》な大泥坊は、つひぞ聞か無えぢやごぜえませんか。」
「聞か無えだつて、好いぢや無えか。国に盗賊、家に鼠だ。大泥坊なんぞはゐ無え方が好い。」
「そりや居無え方が好い。居無え方が好いにや違えごぜえませんがね。」
色の白い、小柄な男は、剳青《ほりもの》のある臂《ひぢ》を延べて、親分へ猪口《ちよく》を差しながら、
「あの時分の事を考へると、へへ、妙なもので盗つ人せえ、懐しくなつて来やすのさ。先刻御承知にや違え無えが、あの鼠小僧と云ふ野郎は、心意気が第一嬉しいや。ねえ、親分。」
「嘘は無え。盗つ人の尻押しにや、こりや博奕打《ばくちうち》が持つて来いだ。」
「へへ、こいつは一番おそれべか。」
と云つて、ちよいと小弁慶の肩を落したが、こちらは忽ち又元気な声になつて、
「私《わつち》だつて何も盗つ人の肩を持つにや当ら無えけれど、あいつは懐の暖《あつたけ》え大名屋敷へ忍びこんぢや、御手許金と云ふやつを掻攫《かつさら》つて、その日に追はれる貧乏人へ恵んでやるのだと云ひやすぜ。成程《なるほど》善悪にや二つは無えが、どうせ盗みをするからにや、悪党|冥利《みやうり》にこの位《くれえ》な陰徳は積んで置き度《て》えとね、まあ、私《わつち》なんぞは思つてゐやすのさ。」
「さうか。さう聞きや無理は無えの。いや、鼠小僧と云ふ野郎も、改代町《かいだいまち》の裸松《はだかまつ》が贔屓《ひいき》になつてくれようとは、夢にも思つちや居無えだらう。思へば冥加《みやうが》な盗つ人だ。」
色の浅黒い、小肥りに肥つた男は、相手に猪口を返しながら、思ひの外しんみりとかう云つたが、やがて何か思ひついたらしく、大様に膝を進めると、急に晴々した微笑を浮べて、
「ぢや聞きねえ。おれもその鼠小僧ぢや、とんだ御茶番を見た事があつての、今でも思ひ出すたんびに、腹の皮がよれてなら無《ね》えのよ。」
親分と呼ばれた男は、かう云ふ前置きを聞かせてから、又悠々と煙管《きせる》を啣《くは》へて、夕日の中に消えて行く煙草の煙の輪と一しよに、次のやうな話をし始めた。
二
丁度今から三年前、おれが盆茣蓙《ぼんござ》の上の達《た》て引《ひ》きから、江戸を売つた時の事だ。
東海道にやちつと差しがあつて、路は悪いが甲州街道を身延《みのぶ》まで出にやなら無えから、忘れもし無え、極月《ごくげつ》の十
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