鼠小僧次郎吉
芥川龍之介

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       一

 或初秋の日暮であつた。
 汐留《しほどめ》の船宿、伊豆屋の表二階には、遊び人らしい二人の男が、さつきから差し向ひで、頻《しきり》に献酬《けんしう》を重ねてゐた。
 一人は色の浅黒い、小肥りに肥つた男で、形《かた》の如く結城《ゆふき》の単衣物《ひとへもの》に、八反の平ぐけを締めたのが、上に羽織つた古渡《こわた》り唐桟《たうざん》の半天と一しよに、その苦みばしつた男ぶりを、一層いなせに見せてゐる趣があつた。もう一人は色の白い、どちらかと云へば小柄な男だが、手首まで彫つてある剳青《ほりもの》が目立つせゐか、糊《のり》の落ちた小弁慶の単衣物に算盤珠《そろばんだま》の三尺をぐるぐる巻きつけたのも、意気と云ふよりは寧《むし》ろ凄味のある、自堕落な心もちしか起させなかつた。のみならずこの男は、役者が二三枚落ちると見えて、相手の男を呼びかける時にも、始終親分と云ふ名を用ひてゐた。が、年輩は彼是《かれこれ》同じ位らしく、それだけ又世間の親分子分よりも、打《う》ち融《と》けた交情が通つてゐる事は、互に差しつ抑へつする盃の間にも明らかだつた。
 初秋の日暮とは云ひながら、向うに見える唐津《からつ》様の海鼠壁《なまこかべ》には、まだ赤々と入日がさして、その日を浴びた一株の柳が、こんもりと葉かげを蒸してゐるのも、去つて間がない残暑の思ひ出を新しくするのに十分だつた。だからこの船宿の表二階にも、葭戸《よしど》こそもう唐紙《からかみ》に変つてゐたが、江戸に未練の残つてゐる夏は、手すりに下つてゐる伊予簾《いよすだれ》や、何時からか床に掛け残された墨絵の滝の掛物や、或は又二人の間に並べてある膳の水貝や洗ひなどに、まざまざと尽きない名残りを示してゐた。実際往来を一つ隔《へだ》ててゐる掘割の明るい水の上から、時たま此処に流れて来るそよ風も、微醺《びくん》を帯びた二人の男には、刷毛先《はけさき》を少し左へ曲げた水髪の鬢《びん》を吹かれる度に、涼しいとは感じられるにした所が、毛頭秋らしいうそ寒さを覚えさせるやうな事はないのである。殊に
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