消えてゐる。その上隣に寝てゐる野郎が、さつきまでは鼾をかいてゐた癖に、今はまるで死んだやうに寝息一つさせやがら無え。はてな、何だか可笑《をか》しな容子《ようす》だぞと、かう思ふか思は無え内に、今度はおれの夜具の中へ、人間の手が這入つて来やがつた。それもがたがたふるへながら、胴巻の結び目を探しやがるのよ。成程。人は見かけにやよら無えものだ。あのでれ助が胡麻《ごま》の蠅とは、こいつはちいつと出来すぎたわい。――と思つたら、すんでの事に、おれは吹き出す所だつたが、その胡麻の蠅と今が今まで、一しよに酒を飲んでゐたと思や、忌々《いまいま》しくもなつて来ての、あの野郎の手が胴巻の結び目をほどきにかかりやがると、いきなり逆にひつ掴《つか》めえて、捻り上げたと思ひねえ。胡麻の蠅の奴め、驚きやがるめえ事か、慌てて振り放さうとする所を、夜具を頭から押つかぶせての、まんまとおれがその上へ馬乗りになつてしまつたのよ。するとあの意気地なしめ、無理無体に夜具の下から、面《つら》だけ外へ出したと思ふと、「ひ、ひ、人殺し」と、烏骨鶏《をこつけい》が時でもつくりやしめえし、奇体《きてえ》な声を立てやがつた。手前《てめえ》が盗みをして置きながら、手前で人を呼びや世話は無え、唐変木《たうへんぼく》とは始めから知つちやゐるが、さりとは男らしくも無え野郎だと、おれは急に腹が立つたから、其処にあつた枕をひつ掴んで、ぽかぽかその面《つら》をぶちのめしたぢや無えか。
さあ、その騒ぎが聞えての、隣近所の客も眼をさましや、宿の亭主や奉公人も、何事が起つたと云ふ顔色で、手燭の火を先立ちに、どかどか二階へ上つて来やがつた。来て見りやおれの股ぐらから、あの野郎がもう片息になつて、面妖《めんえう》な面《つら》を出してゐやがる始末よ。こりや誰が見ても大笑ひだ。
「おい、御亭主、飛んだ蚤《のみ》にたかられての、人騒がせをして済まなかつた。外《ほか》の客人にやお前から、よく詑びを云つておくんなせえ。」
それつきりよ。もう後は訳を話すも話さ無えも無え。奉公人がすぐにあの野郎を、ぐるぐる巻にふん縛つて、まるで生捕りました河童《かつぱ》のやうに、寄つてたかつて二階から、引きずり下してしまやがつた。
さてその後で山甚の亭主が、おれの前へ手をついての、
「いや、どうも以ての外の御災難で、さぞまあ、御驚きでございましたらう。が、御路用そ
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