れ寒《さむ》さ凌《しの》ぎと、熱燗《あつかん》で二三杯きめ出すと、その越後屋重吉と云ふ野郎が、始末に了《を》へ無え機嫌上戸での、唯でせえ口のまめなやつが、大方|饒舌《しやべ》る事ぢや無え。
「旦那え、この酒なら御口に合ひやせう。これから甲州路へかかつて御覧なさいやし。とてもかう云ふ酒は飲めませんや。へへ、古い洒落《しやれ》だが与右衛門の女房で、私《わつし》ばかりかさねがさね――」
 などと云つてゐる内は、まだ好かつたが、銚子が二三本も並ぶやうになると、目尻を下げて、鼻の脂を光らせて、しやくんだ顋《あご》を乙に振つて、
「酒に恨《うらみ》が数々ござるつてね、私なんぞも旦那の前だが、茶屋酒のちいつとまはり過ぎたのが、飛んだ身の仇《あだ》になりやした。あ、あだな潮来《いたこ》で迷はせるつ。」
 とふるへ声で唄ひ始めやがる。おれは実に持て余しての、何でもこいつは寝かすより外に仕方が無えと思つたから、潮さきを見て飯にすると、
「さあ、明日が早えから、寝なせえ。寝なせえ。」
 とせき立てての、まだ徳利《とつくり》に未練のあるやつを、やつと横にならせたが、御方便なものぢや無えか、あれ程はしやいでゐた野郎が、枕へ頭をつけたとなると、酒臭え欠伸《あくび》を一つして、
「あああつ、あだな潮来で迷はせるつ。」
 ともう一度、気味の悪い声を出しやがつたが、それつきり後は鼾《いびき》になつて、いくら鼠が騒がうが、寝返り一つ打ちやがら無え。
 が、こつちや災難だ。何を云ふにも江戸を立つて、今夜が始めての泊りぢやあるし、その鼾が耳へついて、あたりが静になりやなる程、反《かへ》つて妙に寝つかれ無え。外はまだ雪が止ま無えと見えて、時々雨戸へさらさらと吹つかける音もするやうだ。隣に寝てゐる極道人《ごくだうにん》は、夢の中でも鼻唄を唄つてゐるかも知ら無えが、江戸にやおれがゐ無えばかりに、一人や二人は夜の目も寝無えで、案じてゐてくれるものがあるだらうと、――これさ、のろけぢや無えと云ふ事に、――つまら無え事を考へると、猶《なほ》の事おれは眼が冴《さ》えての、早く夜明けになりや好いと、そればつかり思つてゐた。
 そんなこんなで九つも聞きの、八つを打つたのも知つてゐたが、その内に眠む気がさしたと見えて、何時《いつ》かうとうとしたやうだつた。が、やがてふと眼がさめると、鼠が燈心でも引きやがつたか、枕もとの行燈が
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