の外別に御紛失物《ごふんじつもの》もなかつたのは、せめてもの御仕合せでございます。追つてはあの野郎も夜の明け次第、早速役所へ引渡す事に致しますから、どうか手前どもの届きません所は、幾重にも御勘弁下さいますやうに。」
と何度も頭を下げるから、
「何、胡麻の蠅とも知ら無えで、道づれになつたのが私の落度だ。それを何も御前《おめえ》さんが、あやまんなさる事は無えのさ。こりやほんの僅ばかりだが、世話になつた若《わけ》え衆《しゆ》たちに、暖え蕎麦《そば》の一杯も振舞つてやつておくんなせえ。」
と祝儀をやつて返したが、つくづく一人になつて考へりや、宿場女郎にでも振られやしめえし、何時までも床に倚《よ》つかかつて、腕組みをしてゐるのも智慧《ちゑ》が無え。と云つてこれから寝られやせず、何かと云ふ中にや六つだらうから、こりや一そ今の内に、ちつとは路が暗くつても、早立ちをするのが上分別だと、かう思案がきまつたから、早速身仕度にとりかかりの、勘定は帳場で払つて行かうと、外の客の邪魔になら無えやうに、そつと梯子口《はしごぐち》まで来て見ると、下ぢやまだ奉公人たちが、皆起きてゐると見えて、何やら話し声も聞えてゐる。するとその中《うち》にどう云ふ訳か、度々さつき手前《てめえ》の話した、鼠小僧と云ふ名が出るぢや無えか。おれは妙だと思つての、両掛の行李を下げた儘、梯子口から下を覗いて見ると、広い土間のまん中にや、あの越後屋重吉と云ふ木念人《ぼくねんじん》が、繩尻は柱に括《くく》られながら、大あぐらをかいてゐやがる。そのまはりにや又若え者が、番頭も一しよに三人ばかり、八間《はちけん》の明りに照らされながら、腕まくりをしてゐるぢや無えか。中でもその番頭が、片手に算盤《そろばん》をひつ掴みの、薬罐頭《やくわんあたま》から湯気を立てて、忌々しさうに何か云ふのを聞きや、
「ほんによ、こんな胡麻の蠅も、今に劫羅《こふら》を経て見さつし、鼠小僧なんぞはそこのけの大泥坊になるかも知れ無え。ほんによ、さうなつた日にやこいつの御蔭で、街道筋の旅籠屋《はたごや》が、みんな暖簾《のれん》に瑕《きず》がつくわな。その事を思や今の内に、ぶつ殺した方が人助けよ。」
と云ふ側から、ぢぢむさく髭《ひげ》の伸びた馬子半天《まごばんてん》が、じろじろ胡麻の蠅の面《つら》を覗きこんで、
「番頭どんともあらうものが、いやはや又|当《あ
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