ずち》が猶鳴り続けた。その内に対岸の山が煙り出すと、どこともなくざっと木々が鳴って、一旦暗くなった湖が、見る見る向うからまた白くなった。彼は始めて顔を挙げた。その途端《とたん》に天を傾けて、瀑《たき》のような大雨《おおあめ》が、沛然《はいぜん》と彼を襲って来た。
三十一
対岸の山はすでに見えなくなった。湖も立ち罩《こ》めた雲煙《うんえん》の中に、ややともすると紛《まぎ》れそうであった。ただ、稲妻の閃《ひらめ》く度に、波の逆立《さかだ》った水面が、一瞬間遠くまで見渡された。と思うと雷《いかずち》の音が、必ず空を掻《か》きむしるように、続けさまに轟々《ごうごう》と爆発した。
素戔嗚《すさのお》はずぶ濡れになりながら、未《いまだ》に汀《なぎさ》の砂を去らなかった。彼の心は頭上の空より、さらに晦濛《かいもう》の底へ沈んでいた。そこには穢《けが》れ果てた自己に対する、憤懣《ふんまん》よりほかに何もなかった。しかし今はその憤懣を恣《ほしいまま》に洩《も》らす力さえ、――大樹の幹に頭を打ちつけるか、湖の底に身を投ずるか、一気に自己を亡すべき、最後の力さえ涸《か》れ尽きていた。だから彼は心身とも、まるで破れた船のように、空しく騒ぎ立つ波に臨んだまま、まっ白に落す豪雨を浴びて、黙然《もくねん》と坐っているよりほかはなかった。
天はいよいよ暗くなった。風雨も一層力を加えた。そうして――突然彼の眼の前が、ぎらぎらと凄まじい薄紫《うすむらさき》になった。山が、雲が、湖が皆|半空《はんくう》に浮んで見えた。同時に地軸《ちじく》も砕けたような、落雷の音が耳を裂《さ》いた。彼は思わず飛び立とうとした。が、すぐにまた前へ倒れた。雨は俯伏《うつぶ》せになった彼の上へ未練未釈《みれんみしゃく》なく降り濺《そそ》いだ。しかし彼は砂の中に半ば顔を埋《うず》めたまま、身動きをする気色《けしき》も見えなかった。……
何時間か過ぎた後《のち》、失神した彼はおもむろに、砂の上から起き上った。彼の前には静な湖が、油のように開いていた。空にはまだ雲が立ち迷ってただ一幅の日の光が、ちょうど対岸の山の頂へ帯のように長く落ちていた。そうしてその光のさした所が、そこだけほかより鮮《あざや》かな黄ばんだ緑に仄《ほの》めいていた。
彼は茫然と眼を挙げて、この平和な自然を眺めた。空も、木々も、雨後の空気も、すべてが彼には、昔見た夢の中の景色のような、懐しい寂莫《せきばく》に溢《あふ》れていた。
「何かおれの忘れていた物が、あの山々の間に潜んでいる。」――彼はそう思いながら、貪《むさぼ》るように湖を眺め続けた。しかしそれが何だったかは、遠い記憶を辿《たど》って見ても、容易に彼には思い出せなかった。
その内に雲の影が移って、彼を囲む真夏の山々へ、一時に日の光が照り渡った。山々を埋《うず》める森の緑は、それと共に美しく湖の空に燃え上った。この時彼の心には異様な戦慄《せんりつ》が伝わるのを感じた。彼は息を呑みながら、熱心に耳を傾けた。すると重なり合った山々の奥から、今まで忘れていた自然の言葉が声のない雷《いかずち》のように轟《とどろ》いて来た。
彼は喜びに戦《おのの》いた。戦きながらその言葉の威力の前に圧倒された。彼はしまいには砂に伏して、必死に耳を塞《ふさ》ごうとした。が、自然は語り続けた。彼は嫌でもその言葉に、じっと聞き入るより途《みち》はなかった。
湖は日に輝きながら、溌溂《はつらつ》とその言葉に応じた。彼は――その汀《なぎさ》にひれ伏している、小さな一人の人間は、代る代る泣いたり笑ったりしていた。が、山々の中から湧き上る声は、彼の悲喜には頓着なく、あたかも目に見えない波濤のように、絶えまなく彼の上へ漲《みなぎ》って来た。
三十二
素戔嗚《すさのお》はその湖の水を浴びて、全身の穢《けが》れを洗い落した。それから岸に臨んでいる、大きな樅《もみ》の木の陰へ行って、久しぶりに健《すこや》な眠に沈んだ。が、夢はその間も、深い真夏の空の奥から、鳥の羽根が一すじ落ちるように、静に彼の上へ舞い下《さが》って来た。――
夢の中は薄暗かった。そうして大きな枯木が一本、彼の前に枝を伸《のば》していた。
そこへ一人の大男が、どこからともなく歩いて来た。顔ははっきり見えなかったが、柄《つか》に竜《りゅう》の飾《かざり》のある高麗剣《こまつるぎ》を佩《は》いている事は、その竜の首が朦朧《もうろう》と金色《こんじき》に光っているせいか、一目にもすぐに見分けられた。
大男は腰の剣《つるぎ》を抜くと、無造作《むぞうさ》にそれを鍔元《つばもと》まで、大木の根本へ突き通した。
素戔嗚はその非凡な膂力《りょりょく》に、驚嘆しずにはいられなかった。すると誰か彼の耳に、
「あれは火雷命《ほのいかずちのみこと》だ。」と、囁いてくれるものがあった。 大男は静に手を挙げて、彼に何か相図《あいず》をした。それが彼には何となく、その高麗剣《こまつるぎ》を抜けと云う相図のように感じられた。そうして急に夢が覚めた。
彼は茫然と身を起した。微風に動いている樅《もみ》の梢《こずえ》には、すでに星が撒《ま》かれていた。周囲にも薄白い湖のほかは、熊笹の戦《そよ》ぎや苔《こけ》の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》が、かすかに動いている夕闇があった。彼は今見た夢を思い出しながら、そう云うあたりへ何気《なにげ》なく、懶《ものう》い視線《しせん》を漂《ただよ》わせた。
と、十歩と離れていない所に、夢の中のそれと変りのない、一本の枯木のあるのが見えた。彼は考える暇《いとま》もなく、その枯木の側へ足を運んだ。
枯木はさっきの落雷に、裂《さ》かれたものに違いなかった。だから根元には何かの針葉《しんよう》が、枝ごと一面に散らばっていた。彼はその針葉を踏むと同時に、夢が夢でなかった事を知った。――枯木の根本には一振《ひとふり》の高麗剣《こまつるぎ》が竜の飾のある柄《つか》を上にほとんど鍔《つば》も見えないほど、深く突き立っていたのであった。
彼は両手に柄を掴《つか》んで、渾身《こんしん》の力をこめながら、一気にその剣《つるぎ》を引き抜いた。剣は今し方|磨《と》いだように鍔元《つばもと》から切先《きっさき》まで冷やかな光を放っていた。「神々はおれを守って居て下さる。」――そう思うと彼の心には、新しい勇気が湧くような気がした。彼は枯木の下に跪《ひざまず》いて天上の神々に祈りを捧げた。
その後《のち》彼はまた樅《もみ》の木陰《こかげ》へ帰って、しっかり剣を抱《いだ》きながら、もう一度深い眠に落ちた。そうして三日三晩の間、死んだように眠り続けた。
眠から覚めた素戔嗚は再び体を清むべく、湖の汀《なぎさ》へ下りて行った。風の凪《な》ぎ尽した湖は、小波《さざなみ》さえ砂を揺《ゆ》すらなかった。その水が彼の足もとへ、汀に立った彼の顔を、鏡のごとく鮮かに映して見せた。それは高天原《たかまがはら》の国にいた時の通り、心も体も逞《たくま》しい、醜《みにく》い神のような顔であった。が、彼の眼の下には、今までにない一筋の皺《しわ》が、いつの間にか一年間の悲しみの痕《あと》を刻んでいた。
三十三
それ以来彼はたった一人、ある時は海を渡り、ある時はまた山を越えて、いろいろな国をさまよって歩いた。しかしどの国のどの部落も、未嘗《いまだかつ》て彼の足を止《とど》めさせるには足らなかった。それらは皆名こそ変っていたが、そこに住んでいる民の心は、高天原の国と同じ事であった。彼は――高天原の国に未練のなかった彼は、それらの民に一臂《いちび》の労を借してやった事はあっても、それらの民の一人となって、老いようと思った事は一度もなかった。「素戔嗚《すさのお》よ。お前は何を探しているのだ。おれと一しょに来い。おれと一しょに来い。……」
彼は風が囁《ささや》くままに、あの湖を後《あと》にしてから、ちょうど満七年の間、はてしない漂泊《ひょうはく》を続けて来た。そうしてその七年目の夏、彼は出雲《いずも》の簸《ひ》の川を遡《さかのぼ》って行く、一艘《いっそう》の独木舟《まるきぶね》の帆の下に、蘆《あし》の深い両岸を眺めている、退屈な彼自身を見出したのであった。
蘆《あし》の向うには一面に、高い松の木が茂っていた。この松の枝が、むらむらと、互に鬩《せめ》ぎ合った上には、夏霞《なつがすみ》に煙っている、陰鬱な山々の頂《いただき》があった。そうしてそのまた山々の空には、時々|鷺《さぎ》が両三羽、眩《まばゆ》く翼を閃《ひらめ》かせながら、斜《ななめ》に渡って行く影が見えた。が、この鷺の影を除いては、川筋一帯どこを見ても、ほとんど人を脅《おびやか》すような、明い寂寞が支配していた。
彼は舷《ふなばた》に身を凭《もた》せて、日に蒸《む》された松脂《まつやに》の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》を胸一ぱいに吸いこみながら、長い間|独木舟《まるきぶね》を風の吹きやるのに任せていた。実際この寂しい川筋の景色も、幾多の冒険に慣《な》れた素戔嗚には、まるで高天原《たかまがはら》の八衢《やちまた》のように、今では寸分《すんぶん》の刺戟《しげき》さえない、平凡な往来に過ぎないのであった。
夕暮が近くなった時、川幅が狭くなると共に、両岸には蘆《あし》が稀《まれ》になって、節《ふし》くれ立った松の根ばかりが、水と泥との交《まじ》る所を、荒涼と絡《かが》っているようになった。彼は今夜の泊りを考えながら、前よりはやや注意深く、両岸に眼を配《くば》って行った。松は水の上まで枝垂《しだ》れた枝を、鉄網のように纏《から》め合せて、林の奥の神秘な世界を、執念《しゅうね》く人目《ひとめ》から隠していた。それでも時たまその松が、鹿《しか》でも水を飲みに来るせいか、疎《まばら》に透《す》いている所には不気味なほど赤い大茸《おおたけ》が、薄暗い中に簇々《そうそう》と群《むらが》っている朽木も見えた。
益々夕暮が迫って来た。その時、彼は遥か向うの、水に臨んでいる一枚岩の上に、人間らしい姿が一つ、坐っているのを発見した。勿論この川筋には、さっきから全然|人煙《じんえん》の挙《あが》っている容子《ようす》は見えなかった。だからこの姿を発見した時も、彼は始は眼を疑って、高麗剣《こまつるぎ》の柄《つか》にこそ手をかけて見たが、まだ体は悠々と独木舟の舷に凭せていた。
その内に舟は水脈《みお》を引いて、次第にそこへ近づいて来た。すると一枚岩の上にいるのも、いよいよ人間に紛《まぎ》れなくなった。のみならずほどなくその姿は、白衣《びゃくい》の据を長く引いた、女だと云う事まで明らかになった。彼は好奇心に眼を輝かせながら、思わず独木舟の舳《みよし》に立ち上った。舟はその間も帆《ほ》に微風を孕《はら》んで、小暗《おぐら》く空に蔓《はびこ》った松の下を、刻々一枚岩の方へ近づきつつあった。
三十四
舟はとうとう一枚岩の前へ釆た。岩の上には松の枝が、やはり長々と枝垂《しだ》れていた。素戔嗚《すさのお》は素早く帆を下すと、その松の枝を片手に掴《つか》んで、両足へうんと力を入れた。と同時に舟は大きく揺れながら、舳に岩角《いわかど》の苔《こけ》をかすって、たちまちそこへ横づけになった。
女は彼の近づくのも知らず、岩の上へ独り泣き伏していた。が、人のけはいに驚いたのか、この時ふと顔を擡《もた》げて、舟の中の彼を見たと思うと、やにわに悲鳴を挙げながら、半ば岩を抱《いだ》いている、太い松の蔭に隠れようとした。しかし彼はその途端《とたん》に、片手に岩角を掴《つか》んだまま、「御待ちなさい。」と云うより早く、後《うしろ》へ引き残した女の裳《もすそ》を、片手にしっかり握りとめた。女は思わずそこへ倒れて、もう一度短い悲鳴を漏《も》らした。が、それぎり身を起す気色《けしき》もなく、また前のように泣き入ってしまった。
彼は纜《ともづな
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