が、その時賑かな笑い声が、静な谷間に谺《こだま》しながら、活《い》き活《い》きと彼の耳にはいった。彼は我知らず足を止めて、声のする方を振り返った。と、洞穴の前に通《かよ》っている、細い岨路《そばみち》の向うから、十五人の妹をつれた、昨日《きのう》よりも美しい大気都姫が、眼早く彼の姿を見つけて、眩《まばゆ》い絹の裳《もすそ》を飜《ひるがえ》しながら、こちらへ急いで来る所であった。
「素戔嗚尊。素戔嗚尊。」
彼等は小鳥の囀《さえず》るように、口々に彼を呼びかけた。その声はほとんど宿命的に、折角《せっかく》橋を渡りかけた素戔嗚の心を蕩漾《とうよう》させた。彼は彼自身の腑甲斐《ふがい》なさに驚きながら、いつか顔中に笑《えみ》を浮べて、彼等の近づくのを待ちうけていた。
二十八
それ以来|素戔嗚《すさのお》は、この春のような洞穴の中に、十六人の女たちと放縦《ほうじゅう》な生活を送るようになった。
一月ばかりは、瞬く暇に過ぎた。
彼は毎日酒を飮んだり、谷川の魚を釣ったりして暮らした。谷川の上流には瀑《たき》があって、そのまた瀑のあたりには年中桃の花が開いていた。十六人の女たちは、朝毎にこの瀑壺《たきつぼ》へ行って、桃花《とうか》の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》を浸《ひた》した水に肌《はだ》を洗うのが常であった。彼はまだ朝日のささない内に、女たちと一しょに水を浴ぶべく、遠い上流まで熊笹の中を、分け上《のぼ》る事も稀《まれ》ではなかった。
その内に偉大な山々も、谷川を隔てた森林も、おいおい彼と交渉のない、死んだ自然に変って行った。彼は朝夕《あさゆう》静寂な谷間の空気を呼吸しても、寸毫《すんごう》の感動さえ受けなくなった。のみならずそう云う心の変化が、全然彼には気にならなかった。だから彼は安んじて、酒びたりな日毎を迎えながら、幻のような幸福を楽んでいた。
しかしある夜夢の中に、彼は山上の岩むらに立って、再び高天原《たかまがはら》の国を眺めやった。高天原の国には日が当って、天《あめ》の安河《やすかわ》の大きな水が焼太刀《やきだち》のごとく光っていた。彼は勁《つよ》い風に吹かれながら、眼の下の景色を見つめていると、急に云いようのない寂しさが、胸一ぱいに漲《みなぎ》って来た、そうして思わず、声を立てて泣いた。その声にふと眼がさめた時、涙は実際彼の煩《ほお》に、冷たい痕《あと》を止《とど》めていた。彼はそれから身を起して、かすかな榾明《ほたあか》りに照らされた、洞穴《ほらあな》の中を見廻した。彼と同じ桃花《とうか》の寝床には、酒の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》のする大気都姫《おおけつひめ》が、安らかな寝息を立てていた。これは勿論彼にとって、珍しい事でも何でもなかった。が、その姿に眼をやると、彼女の顔は不思議にも、眉目《びもく》の形こそ変らないが、垂死《すいし》の老婆と同じ事であった。
彼は恐怖と嫌悪《けんお》とに、わななく歯を噛みしめながら、そっと生暖《なまあたたか》い寝床を辷《すべ》り脱けた。そうして素早く身仕度《みじたく》をすると、あの猿のような老婆も感づかないほど、こっそり洞穴の外へ忍んで出た。
外には暗い夜の底に、谷川の音ばかりが聞えていた。彼は藤蔓《ふじづる》の橋を渡るが早いか、獣《けもの》のように熊笹を潜《くぐ》って、木の葉一つ動かない森林を、奥へ奥へと分けて行った。星の光、冷かな露、苔《こけ》の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]、梟《ふくろう》の眼――すべてが彼には今までにない、爽かな力に溢《あふ》れているようであった。
彼は後《あと》も振返らずに、夜が明けるまで歩み続けた。森林の夜明けは美しかった。暗い栂《とが》や樅《もみ》の空が燃えるように赤く染まった時、彼は何度も声を挙げて、あの洞穴を逃れ出した彼自身の幸福を祝したりした。
やがて太陽が、森の真上へ来た。彼は梢《こずえ》の山鳩《やまばと》を眺めながら、弓矢を忘れて来た事を後悔した。が、空腹を充すべき木《こ》の実《み》は、どこにでも沢山あった。
日の暮は瞼《けわ》しい崖《がけ》の上に、寂しそうな彼を見出した。森はその崖の下にも、針葉樹の鋒《ほこ》を並べていた。彼は岩かどに腰を下して、谷に沈む日輪を眺めながら、うす暗い洞穴の壁に懸っている、剣《つるぎ》や斧《おの》を思いやった。すると何故《なぜ》か、山々の向うから、十六人の女の笑い声が、かすかに伝わって来るような心もちがした。それは想像も出来ないくらい、怪しい誘惑に富んだ幻《まぼろし》であった。彼は暮れかかる岩と森とを、食い入るように見据えたまま、必死にその誘惑を禦《ふせ》ごうとした。が、あの洞穴の榾火《ほたび》の思い出は、まるで眼に見えない網のように、じりじり彼の心を捉《とら》えて行った。
二十九
素戔嗚《すさのお》は一日の後《のち》、またあの洞中に帰って来た。十六人の女たちは、皆彼の逃げた事も知らないような顔をしていた。それはどう考えても、無関心を装《よそお》っているとは思われなかった。むしろ彼等は始めから、ある不思議な無感受性を持っているような気がするのであった。
この彼等の無感受性は、当座の間彼を苦しませた。が、さらに一月ばかり経って見ると、反《かえ》って彼はそのために、前よりも猶《なお》安々《やすやす》と、いつまでも醒《さ》めない酔《よい》のような、怪しい幸福に浸《ひた》る事が出来た。
一年ばかりの月日は、再び夢のように通り過ぎた。
するとある日女たちは、どこから洞穴《ほらあな》へつれて来たか、一頭の犬を飼うようになった。犬は全身まっ黒な、犢《こうし》ほどもある牡《おす》であった。彼等は、殊に大気都姫《おおけつひめ》は、人間のようにこの犬を可愛がった。彼も始は彼等と一しょに、盤《さら》の魚や獣《けもの》の肉を投げてやる事を嫌わなかった。あるいはまた酒後の戯《たわむ》れに、相撲《すもう》をとる事も度々あった。犬は時々前足を飛ばせて、酔《よ》い痴《し》れた彼を投げ倒した。彼等はその度に手を叩いて、賑かに笑い興じながら、意気地《いくじ》のない彼を嘲り合った。
ところが犬は一日毎に、益々彼等に愛されて行った。大気都姫はとうとう食事の度に、彼と同じ盤《さら》や瓶《ほたり》を、犬の前にも並べるようになった。彼は苦《にが》い顔をして、一度は犬を逐《お》い払おうとした。が、彼女はいつになく、美しい眼の色を変えて、彼の我儘を咎《とが》め立てた。その怒を犯してまでも、犬を成敗《せいばい》しようと云う勇気は、すでに彼には失われていた。彼はそこで犬と共に、肉を食ったり酒を飲んだりした。犬は彼の不快を知っているように、いつも盤《さら》を舐《な》め廻しながら、彼の方へ牙《きば》を剥《む》いて見せた。
しかしその間は、まだ好かった。ある朝彼は女たちに遅れて、例の通り瀑《たき》を浴びに行った。季節は夏に近かったが、そのあたりの桃は相不変《あいかわらず》、谷間の霧の中に開いていた。彼は熊笹《くまざさ》を押し分けながら、桃の落花を湛《たた》えている、すぐ下の瀑壺《たきつぼ》へ下りようとした。その時彼の眼は思いがけなく、水を浴びている××××××黒い獣《けもの》が動いているのを見た。××××××××××××××××××××××××××××××。彼はすぐに腰の剣《つるぎ》を抜いて、一刺しに犬を刺そうとした。が、女たちはいずれも犬をかばって、自由に剣を揮《ふる》わせなかった。その暇に犬は水を垂らしながら、瀑壺《たきつぼ》の外へ躍り上って、洞穴の方へ逃げて行ってしまった。
それ以来夜毎の酒盛りにも、十六人の女たちが、一生懸命に奪い合うのは、素戔嗚ではなくて、黒犬であった。彼は酒に中《ひた》りながら、洞穴の奥に蹲《うずくま》って、一夜中《ひとよじゅう》酔《よい》泣きの涙を落していた。彼の心は犬に対する、燃えるような嫉妬《しっと》で一ぱいであった。が、その嫉妬の浅間《あさま》しさなどは、寸毫《すんごう》も念頭には上《のぼ》らなかった。
ある夜彼がまた洞穴の奥に、泣き顔を両手へ埋《うず》めていると、突然誰かが忍びよって、両手に彼を抱《いだ》きながら艶《なま》めかしい言葉を囁《ささや》いた。彼は意外な眼を挙げて、油火《あぶらび》には遠い薄暗がりに、じっと相手の顔を透《す》かして見た。と同時に怒声を発して、いきなり相手を突き放した。相手は一たまりもなく床《ゆか》に倒れて、苦しそうな呻吟《しんぎん》の声を洩らした。――それはあの腰も碌《ろく》に立たない、猿のような老婆の声であった。
三十
老婆を投げ倒した素戔嗚《すさのお》は、涙に濡れた顔をしかめたまま、虎《とら》のように身を起した。彼の心はその瞬間、嫉妬と憤怒《ふんぬ》と屈辱《くつじょく》との煮え返っている坩堝《るつぼ》であった。彼は眼前に犬と戯《たわむ》れている、十六人の女たちを見るが早いか、頭椎《かぶつち》の太刀を引き抜きながら、この女たちの群《むらが》った中へ、我を忘れて突進した。
犬は咄嗟《とっさ》に身を飜して、危く彼の太刀を避けた。と同時に女たちは、哮《たけ》り立った彼を引き止むべく、右からも左からもからみついた。が、彼はその腕を振り離して、切先下《きっさきさが》りにもう一度狂いまわる犬を刺《さ》そうとした。
しかし大刀は犬の代りに、彼の武器を奪おうとした、大気都姫《おおけつひめ》の胸を刺した。彼女は苦痛の声を洩《も》らして、のけざまに床の上へ倒れた。それを見た女たちは、皆悲鳴を挙げながら、糅然《じゅうぜん》と四方へ逃げのいた。燈台の倒れる音、けたたましく犬の吠える声、それから盤《さら》だの瓶《ほたり》だのが粉微塵《こなみじん》に砕ける音、――今まで笑い声に満ちていた洞穴《ほらあな》の中も、一しきりはまるで嵐のような、混乱の底に投げこまれてしまった。
彼は彼自身の眼を疑うように、一刹那《いっせつな》は茫然と佇《たたず》んでいた。が、たちまち大刀を捨てて、両手に頭を抑えたと思うと、息苦しそうな呻《うめ》き声を発して、弦《いと》を離れた矢よりも早く、洞穴の外へ走り出した。
空には暈《かさ》のかかった月が、無気味《ぶきみ》なくらいぼんやり蒼《あお》ざめていた。森の木々もその空に、暗枝《あんし》をさし交《かわ》せて、ひっそり谷を封じたまま、何か凶事《きょうじ》が起るのを待ち構えているようであった。が、彼は何も見ず、何も聞かずに走り続けた。熊笹は露を振いながら、あたかも彼を埋《うず》めようとするごとく、どこまで行っても浪《なみ》を立てていた。時々|夜鳥《よどり》がその中から、翼に薄い燐光《りんこう》を帯びて、風もない梢《こずえ》へ昇って行った。……
明《あ》け方《がた》彼は彼自身を、大きな湖の岸に見出した。湖は曇った空の下にちょうど鉛《なまり》の板かと思うほど、波一つ揚げていなかった。周囲に聳《そび》えた山々も重苦しい夏の緑の色が、わずかに人心地のついた彼には、ほとんど永久に癒《い》やす事を知らない、憂鬱そのもののごとくに見えた。彼は岸の熊笹を分けて、乾いた砂の上に下りた。それからそこに腰を下《おろ》して、寂しい水面《みのも》へ眼を送った。湖には遠く一二点、かいつぶりの姿が浮んでいた。
すると彼の心には、急に悲しさがこみ上げて来た。彼は高天原《たかまがはら》の国にいた時、無数の若者を敵にしていた。それが今では、一匹の犬が、彼の死敵《してき》のすべてであった。――彼は両手に顔を埋《うず》めて、長い間大声に泣いていた。
その間に空模様が変った。対岸を塞《ふさ》いだ山の空には、二三度|鍵《かぎ》の手の稲妻《いなずま》が飛んだ。続いて殷々《いんいん》と雷《いかずち》が鳴った。彼はそれでも泣きながら、じっと砂の上に坐っていた。やがて雨を孕《はら》んだ風が、大うねりに岸の熊笹を渡った。と、俄《にわか》に湖が暗くなって、ざわざわ波が騒ぎ始めた。
雷《いか
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