煙《みずけむり》と雨のしぶきとの中に、危く懸っている所へ出た。
 桟橋を隔てた絶壁には、火食《かしょく》の煙が靡《なび》いている、大きな洞穴《ほらあな》が幾つか見えた。彼はためらわずに桟橋を渡って、その穴の一つを覗《のぞ》いて見た。穴の中には二人の女が、炉《ろ》の火を前に坐っていた。二人とも火の光を浴びて、描《えが》いたように赤く見えた。一人は猿のような老婆であったが、一人はまだ年も若いらしかった。それが彼の姿を見ると、同時に声を挙げながら、洞穴の奥へ逃げこもうとした。が、彼は彼等のほかに男手のないのを見るが早いか、猛然と穴の中へ突き進んだ。そうしてまず造作《ぞうさ》もなく、老婆をそこへ※[#「てへん+丑」、第4水準2−12−93]《ね》じ伏せてしまった。
 若い女は壁に懸けた刀子《とうす》へ手をかけるや否や、素早く彼の胸を刺《さ》そうとした。が、彼は片手を揮《ふる》って、一打にその刀子を打ち落した。女はさらに剣《つるぎ》を抜いて、執念《しゅうね》く彼を襲って来た。しかし剣は一瞬の後、やはり鏘然《そうぜん》と床《ゆか》に落ちた。彼はその剣を拾い取ると、切先《きっさき》を歯に啣《くわ》えながら苦もなく二つに折って見せた。そうして冷笑を浮べたまま、戦いを挑《いど》むように女を見た。
 女はすでに斧《おの》を執《と》って、三度彼に手向おうとしていた。が、彼が剣を折ったのを見ると、すぐに斧を投げ捨てて、彼の憐《あわれみ》に訴《うった》うべく、床の上にひれ伏してしまった。
「おれは腹が減っているのだ。食事の仕度をしれい。」
 彼は捉《とら》えていた手を緩《ゆる》めて、猿のような老婆をも自由にした。それから炉の火の前へ行って、楽々とあぐらをかいた。二人の女は彼の命令通り、黙々と食事の仕度を始めた。

        二十五

 洞穴《ほらあな》の中は広かった。壁にはいろいろな武器が懸けてあった。それが炉の火の光を浴びて、いずれも美々しく輝いていた。床《ゆか》にはまた鹿《しか》や熊《くま》の皮が、何枚もそこここに敷いてあった。その上何から起るのか、うす甘い※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》が快く暖な空気に漂っていた。
 その内に食事の仕度が出来た。野獣の肉、谷川の魚、森の木《こ》の実《み》、干《ほ》した貝、――そう云う物が盤《さら》や坏《つき》に堆《うずたか》く盛られたまま、彼の前に並べられた。若い女は瓶《ほたり》を執って、彼に酒を勧《すす》むべく、炉のほとりへ坐りに来た。目近《まじか》に坐っているのを見れば、色の白い、髪の豊な、愛嬌《あいきょう》のある女であった。
 彼は獣《けもの》のように、飮んだり食ったりした。盤や坏は見る見る内に、一つ残らず空《から》になった。女は健啖《けんたん》な彼を眺めながら子供のように微笑していた。彼に刀子《とうす》を加えようとした、以前の慓悍《ひょうかん》な気色《けしき》などは、どこを探しても見えなかった。
「さあ、これで腹は出来た。今度は着る物を一枚くれい。」
 彼は食事をすませると、こう云って、大きな欠伸《あくび》をした。女は洞穴《ほらあな》の奥へ行って、絹の着物を持って来た。それは今まで彼の見た事のない、精巧な織模様のある着物であった。彼は身仕度をすませると、壁の上の武器の中から、頭椎《かぶつち》の剣《つるぎ》を一振《ひとふり》とって、左の腰に結び下げた。それからまた炉の火の前へ行って、さっきのようにあぐらを掻《か》いた。
「何かまだ御用がございますか。」
 しばらくの後、女はまた側へ来て、ためらうような尋ね方をした。
「おれは主人の帰るのを待っているのだ。」
「待って、――どうなさるのでございますか。」
「太刀打《たちうち》をしようと思うのだ。おれは女を劫《おびやか》して、盗人を働いたなどとは云われたくない。」
 女は顔にかかる髪を掻き上げながら、鮮《あざやか》な微笑を浮べて見せた。「それでは御待ちになるがものはございません。私がこの洞穴の主人なのでございますから。」
 素戔嗚は意外の感に打たれて、思わず眼を大きくした。
「男は一人もいないのか。」
「一人も居りません。」
「この近くの洞穴には?」
「皆|私《わたくし》の妹たちが、二三人ずつ住んで居ります。」
 彼は顔をしかめたまま二三度頭を強く振った。火の光、床《ゆか》の毛皮、それから壁上の太刀《たち》や剣《つるぎ》、――すべてが彼には、怪しげな幻のような心もちがした。殊にこの若い女は、きらびやかな頸珠《くびだま》や剣を飾っているだけに、余計人間離れのした、山媛《やまひめ》のような気がするのであった。しかし風雨の森林を長い間さまよった後《のち》この危害の惧《おそれ》のない、暖な洞穴に坐っているのは、とにかく快いには違いなかった。
「妹たちは大勢いるのか。」
「十六人居ります。――ただ今姥が知らせに参りましたから、その内に皆御眼にかかりに、出て参るでございましょう。」
 成程《なるほど》そう云われて見れば、あの猿のような老婆の姿は、いつの間にか見えなくなっていた。

        二十六

 素戔嗚《すさのお》は膝を抱えたまま、洞外をどよもす風雨の音にぼんやり耳を傾けていた。すると女は炉の中へ、新に焚き木を加えながら、
「あの――御名前は何とおっしゃいますか。私は大気都姫《おおけつひめ》と申しますが。」と云った。
「おれは素戔嗚だ。」
 彼がこう名乗った時、大気都姫は驚いた眼を挙げて、今更のようにこの無様《ぶざま》な若者を眺めた。素戔嗚の名は彼女の耳にも、明かに熟しているようであった。
「では今まではあの山の向うの、高天原《たかまがはら》の国にいらしったのでございますか。」
 彼は黙って頷《うなず》いた。
「高天原の国は、好《よ》い所だと申すではございませんか。」
 この言葉を聞くと共に、一時静まっていた心頭《しんとう》の怒火《どか》が、また彼の眼の中に燃えあがった。
「高天原の国か。高天原の国は、鼠が猪《いのしし》よりも強い所だ。」
 大気都姫は微笑した。その拍子《ひょうし》に美しい歯が、鮮《あざやか》に火の光に映って見えた。
「ここは何と云う所だ?」
 彼は強いて冷かに、こう話頭を転換した。が、彼女は微笑を含んで、彼の逞《たくま》しい肩のあたりへじっと眼を注いだまま、何ともその問に答えなかった。彼は苛立《いらだ》たしい眉《まゆ》を動かして、もう一度同じ事を繰返した。大気都姫は始めて我に返ったように、滴《したた》るような媚《こび》を眼に浮べて、
「ここでございますか。ここは――ここは猪が鼠より強い所でございます。」と答えた。
 その時|俄《にわか》に人のけはいがして、あの老婆を先頭に、十五人の若い女たちが、風雨にめげた気色《けしき》もなく、ぞろぞろ洞穴《ほらあな》の中へはいって来た。彼等は皆頬に紅《くれない》をさして、高々と黒髪を束《つか》ねていた。それが順々に大気都姫《おおけつひめ》と、親しそうな挨拶《あいさつ》を交換すると、呆気《あっけ》にとられた彼のまわりへ、馴《な》れ馴れしく手《て》ん手《で》に席を占めた。頸珠《くびだま》の色、耳環《みみわ》の光、それから着物の絹ずれの音、――洞穴の内はそう云う物が、榾明《ほたあか》りの中に充ち満ちたせいか、急に狭くなったような心もちがした。
 十六人の女たちは、すぐに彼を取りまいて、こう云う山の中にも似合わない、陽気な酒盛《さかもり》を開き始めた。彼は始は唖《おし》のように、ただ勧《すす》められる盃を一息にぐいぐい飲み干していた。が、酔《よい》がまわって来ると、追いおい大きな声を挙げて、笑ったり話したりする様になった。女たちのある者は、玉を飾って琴を弾《ひ》いた。またある者は、盃を控えて、艶《なまめ》かしい恋の歌を唱った。洞穴は彼等のえらぐ声に、鳴りどよむばかりであった。
 その内に夜になった。老婆は炉《ろ》に焚き木を加えると共に、幾つも油火《あぶらび》の燈台をともした。その昼のような光の中に、彼は泥のように酔《よ》い痴《し》れながら、前後左右に周旋する女たちの自由になっていた。十六人の女たちは、時々彼を奪い合って、互に嬌嗔《きょうしん》を帯びた声を立てた。が、大抵は大気都姫が、妹たちの怒には頓着なく、酒に中《ひた》った彼を壟断《ろうだん》していた。彼は風雨も、山々も、あるいはまた高天原《たかまがはら》の国も忘れて、洞穴を罩《こ》めた脂粉《しふん》の気の中《なか》に、全く沈湎《ちんめん》しているようであった。ただその大騒ぎの最中《もなか》にも、あの猿のような老婆だけは、静に片隅に蹲《うずくま》って、十六人の女たちの、人目を憚《はばか》らない酔態に皮肉な流し目を送っていた。

        二十七

 夜《よ》は次第に更《ふ》けて行った。空《から》になった盤《さら》や瓶《ほたり》は、時々けたたましい音を立てて、床《ゆか》の上にころげ落ちた。床の上に敷いた毛皮も、絶えず机から滴《したた》る酒に、いつかぐっしょり濡《ぬ》らされていた。十六人の女たちは、ほとんど正体《しょうたい》もないらしかった。彼等の口から洩れるものは、ただ意味のない笑い声か、苦しそうな吐息《といき》の音ばかりであった。
 やがて老婆は立ち上って、明るい油火の燈台を一つ一つ消して行った。後には炉《ろ》に消えかかった、煤臭《すすくさ》い榾《ほた》の火だけが残った。そのかすかな火の光は、十六人の女に虐《さいな》まれている、小山のような彼の姿を朦朧《もうろう》といつまでも照していた。……
 翌日彼は眼をさますと、洞穴《ほらあな》の奥にしつらえた、絹や毛皮の寝床の中に、たった一人横になっていた。寝床には菅畳《すがだたみ》を延べる代りに、堆《うずたか》く桃《もも》の花が敷いてあった。昨日《きのう》から洞中に溢《あふ》れていた、あのうす甘い、不思議な※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》は、この桃の花の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]に違いなかった。彼は鼻を鳴らしながら、しばらくはただぼんやりと岩の天井を眺めていた。すると気違いじみた昨夜《ゆうべ》の記憶が、夢のごとく眼に浮んで来た。と同時にまた妙な腹立たしさが、むらむらと心頭を襲い出した。
「畜生《ちくしょう》。」
 素戔嗚《すさのお》はこう呻《うめ》きながら、勢いよく寝床を飛び出した。その拍子に桃の花が、煽《あお》ったように空へ舞い上った。
 洞穴の中には例の老婆が、余念なく朝飯の仕度をしていた。大気都姫《おおけつひめ》はどこへ行ったか、全く姿を見せなかった。彼は手早く靴《くつ》を穿《は》いて、頭椎《かぶつち》の太刀を腰に帯びると、老婆の挨拶には頓着なく、大股に洞外へ歩を運んだ。
 微風は彼の頭から、すぐさま宿酔《しゅくすい》を吹き払った。彼は両腕を胸に組んで、谷川の向うに戦《そよ》いでいる、さわやかな森林の梢《こずえ》を眺めた。森林の空には高い山々が、中腹に懸った靄《もや》の上に、※[#「山/贊」、第4水準2−8−72]※[#「山+元」、第3水準1−47−69]《さんがん》たる肌《はだ》を曝《さら》していた。しかもその巨大な山々の峰は、すでに朝日の光を受けて、まるで彼を見下しながら、声もなく昨夜《ゆうべ》の狂態を嘲笑《あざわら》っているように見えるのであった。
 この山々と森林とを眺めていると、彼は急に洞穴《ほらあな》の空気が、嘔吐《おうと》を催すほど不快になった。今は炉《ろ》の火も、瓶《ほたり》の酒も、乃至《ないし》寝床の桃の花も、ことごとく忌《いま》わしい腐敗の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》に充満しているとしか思われなかった。殊にあの十六人の女たちは、いずれも死穢《しえ》を隠すために、巧な紅粉《こうふん》を装っている、屍骨《しこつ》のような心もちさえした。彼はそこで山々の前に、思わず深い息をつくと、悄然《しょうぜん》と頭を低《た》れながら、洞穴の前に懸っている藤蔓《ふじづる》の橋を渡ろうとした。
 
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