すさのお》の心の中には、長い間眠っていた、流血に憧《あこが》れる野性が目ざめた。彼は素早《すばや》く足を縮《ちぢ》めて、相手の武器を飛び越えると、咄嗟《とっさ》に腰の剣を抜いて、牛の吼《ほ》えるような声を挙げた。そうしてその声を挙げるが早いか、無二無三《むにむさん》に相手へ斬ってかかった。彼等の剣は凄じい音を立てて、濛々《もうもう》と渦巻く煙の中に、二三度眼に痛い火花を飛ばせた。
しかし美貌の若者は、勿論彼の敵ではなかった。彼の振り廻す幅広の剣は、一太刀毎《ひとたちごと》にこの若者を容赦《ようしゃ》なく死地へ追いこんで行った。いや、彼は数合の内に、ほとんど一気に相手の頭を斬り割る所まで肉薄していた。するとその途端に甕《かめ》が一つ、どこからか彼の頭を目がけて、勢い好く宙を飛んで来た。が、幸《さいわい》それは狙《ねら》いが外《そ》れて、彼の足もとへ落ちると共に、粉微塵《こなみじん》に砕けてしまった。彼は太刀打を続けながら、猛《たけ》り立った眼を挙げて、忙《いそが》わしく家の中を見廻した。見廻すと、裏手の蓆戸《むしろど》の前には、さっき彼に後を見せた、あの牛飼いの若者が、これも眼を血走らせたまま、相手の危急を救うべく、今度は大きな桶を一つ、持ち上げている所であった。
彼は再び牛のような叫び声を挙げながら、若者が桶を投げるより先に、渾身の力を剣にこめて、相手の脳天へ打ち下そうとした。が、その時すでに大きな桶は、炎の空に風を切って、がんと彼の頭に中《あた》った。彼はさすがに眼が眩《くら》んだのか、大風に吹かれた旗竿《はたざお》のように思わずよろよろ足を乱して、危くそこへ倒れようとした。その暇に相手の若者は、奮然と身を躍らせると、――もう火の移った簾《すだれ》を衝《つ》いて、片手に剣《つるぎ》を提《ひっさ》げながら、静な外の春の月夜へ、一目散に逃げて行った。
彼は歯を喰いしばったまま、ようやく足を踏み固めた。しかし眼を開《あ》いて見ると、火と煙とに溢《あふ》れた家の中には、とうに誰もいなくなっていた。
「逃げたな、何、逃げようと云っても、逃がしはしないぞ。」
彼は髪も着物も焼かれながら、戸口の簾《すだれ》を切り払って、蹌踉《そうろう》と家の外へ出た。月明《つきあかり》に照らされた往来は、屋根を燃え抜いた火の光を得て、真昼のように明るかった。そうしてその明るい往来には、部落の家々から出て来た人の姿が、黒々と何人も立ち並んでいた。のみならずその人影は、剣を下げた彼を見ると、誰からともなく騒ぎ立って、「素戔嗚だ。素戔嗚だ。」と呼び交《かわ》す声が、たちまち高くなり始めた。彼はそう云う声を浴びて、しばらくはぼんやり佇《たたず》んで居た。また実際それよりほかに、何の分別もつかないほど、殺気立った彼の心の中《うち》には、気も狂いそうな混乱が、益々烈しくなって居たのであった。
その内に往来の人影は、見る見る数を加え出した。と同時に騒《さわ》がしい叫び声も、いつか憎悪を孕《はら》んで居る険悪な調子を帯び始めた。
「火つけを殺せ。」
「盗人《ぬすびと》を殺せ。」
「素戔嗚を殺せ。」
二十二
この時部落の後《うしろ》にある、草山《くさやま》の楡《にれ》の木の下には、髯《ひげ》の長い一人の老人が天心の月を眺めながら、悠々と腰を下していた。物静な春の夜《よ》は、藪木《やぶき》の花のかすかな※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》を柔かく靄《もや》に包んだまま、ここでもただ梟《ふくろう》の声が、ちょうど山その物の吐息《といき》のように、一天の疎《まばら》な星の光を時々曇らせているばかりであった。
が、その内に眼の下の部落からは、思いもよらない火事の煙が、風の断《た》えた中空《なかぞら》へ一すじまっ直《すぐ》に上り始めた。老人はその煙の中に立ち昇る火の粉を眺めても、やはり膝を抱きながら、気楽そうに小声の歌を唱って、一向驚くらしい気色《けしき》も見せなかった。しかし間もなく部落からは、まるで蜂《はち》の巣を壊《こわ》したような人どよめきの音が聞えて来た。のみならずその音は次第に高くざわめき立って、とうとう戦《たたかい》でも起ったかと思う、烈しい喊声《かんせい》さえ伝わり出した。これにはさすがの老人も、いささか意外な気がしたと見えて、白い眉《まゆ》をひそめながら、おもむろに腰を擡《もた》げると、両手を耳へ当てがって、時ならない部落の騒動をじっと聞き澄まそうとするらしかった。
「はてな。剣の音なぞもするようだが。」
老人はこう呟《つぶや》きながら、しばらくはそこに伸び上って、絶えず金粉を煽っている火事の煙に見入っていた。
するとほどなく部落から、逃げて来たらしい七八人の男女《なんにょ》が、喘《あえ》ぎ喘ぎ草山へ上って来た。彼等のある者は髪を垂れた、十《とお》には足りない童児《どうじ》であった。ある者は肌も見えるくらい、襟や裳紐《もすそひも》を取り乱した、寝起きらしい娘であった。そうしてまたある者は弓よりも猶《なお》腰の曲った、立居さえ苦しそうな老婆であった。彼等は草山の上まで来ると、云い合せたように皆足を止めて、月夜の空を焦《こが》している部落の火事へ眼を返した。が、やがてその中の一人が、楡《にれ》の根がたに佇《たたず》んだ老人の姿を見るや否や、気づかわしそうに寄り添った。この足弱の一群からは、「思兼尊《おもいかねのみこと》、思兼尊。」と云う言葉が、ため息と一しょに溢《あふ》れて来た。と同時に胸も露《あら》わな、夜目にも美しい娘が一人、「伯父様。」と声をかけながら、こちらを振り向いた老人の方へ、小鳥のように身軽く走り寄った。
「どうしたのだ、あの騒ぎは。」
思兼尊はまだ眉《まゆ》をひそめながら、取りすがった娘を片手に抱《だ》いて、誰にともなくこう尋ねた。
「素戔嗚尊《すさのおのみこと》がどうした事か、急に乱暴を始めたとか申す事でございますよ。」
答えたのはあの快活な娘でなくて、彼等の中に交《まじ》っていた、眼鼻も見えないような老婆《ろうば》であった。
「何、素戔嗚尊が乱暴を始めた?」
「はい、それ故大勢の若者たちが、尊《みこと》を搦《から》めようと致しますと、平生《へいぜい》尊の味方をする若者たちが承知致しませんで、とうとうあのように何年にもない、大騒動《おおそうどう》が始まったそうでございますよ。」
思兼尊は考え深い目つきをして、部落に上っている火事の煙と、尊の胸にすがっている娘の顔とを見比べた。娘は月に照らされたせいか、鬢《びん》の乱れた頬の色が、透《す》き徹るかと思うほど青ざめていた。
「火を弄《もてあそ》ぶものは、気をつけないと、――素戔嗚尊ばかりではない。火を弄ぶものは、気をつけないと――」
尊は皺《しわ》だらけな顔に苦笑を浮べて、今はさらに拡がったらしい火の手を遥に眺めながら、黙って震《ふる》えている姪《めい》の髪を劬《いたわ》るように撫《な》でてやった。
二十三
部落の戦いは翌朝《よくちょう》まで続いた。が、寡《か》はついに衆の敵ではなかった。素戔嗚《すさのお》は味方の若者たちと共に、とうとう敵の手に生捉《いけど》られた。日頃彼に悪意を抱いていた若者たちは、鞠《まり》のように彼を縛《いまし》めた上、いろいろ乱暴な凌辱《りょうじょく》を加えた。彼は打たれたり蹴《け》られたりする度毎《たびごと》に、ごろごろ地上を転がりまわって、牛の吼《ほ》えるような怒声を挙げた。
部落の老若《ろうにゃく》はことごとく、律《おきて》通り彼を殺して、騒動の罪を贖《つぐな》わせようとした。が、思兼尊《おもいかねのみこと》と手力雄尊《たぢからおのみこと》と、この二人の勢力家だけは、容易に賛同の意を示さなかった。手力雄尊は素戔嗚の罪を憎みながらも、彼の非凡な膂力《りょりょく》には愛惜の情を感じていた。これは同時にまた思兼尊が、むざむざ彼ほどの若者を殺したくない理由でもあった。のみならず尊《みこと》は彼ばかりでなく、すべて人間を殺すと云う事に、極端な嫌悪《けんお》を抱いていた。――
部落の老若は彼の罪を定《さだ》めるために、三日の間議論を重ねた。が、二人の尊たちはどうしても意見を改めなかった。彼等はそこで死刑の代りに、彼を追放に処する事にした。しかしこのまま、彼の縄を解いて、彼に広い国外の自由の天地を与えるのは、到底《とうてい》彼等の忍び難い、寛大に過ぎた処置であった。彼等はまず彼の鬚《ひげ》を、一本残らずむしり取った。それから彼の手足の爪を、まるで貝でも剥《は》がすように、未練未釈《みれんみしゃく》なく抜いてしまった。その上彼の縄を解くと、ほとんど手足も利《き》かない彼へ、手ん手に石を投げつけたり、慓悍《ひょうかん》な狩犬をけしかけたりした。彼は血にまみれながら、ほとんど高這《たかば》いをしないばかりに、蹌踉《そうろう》と部落を逃れて行った。
彼が高天原《たかまがはら》の国をめぐる山々の峰を越えたのは、ちょうどその後《ご》二日経った、空模様の怪しい午後であった。彼は山の頂きへ来た時、嶮《けわ》しい岩むらの上へ登って、住み慣れた部落の横わっている、盆地の方を眺めて見た。が、彼の眼の下には、ただうす白い霧の海が、それらしい平地をぼんやりと、透《す》かして見せるばかりであった。彼はしかし岩の上に、朝焼《あさやけ》の空を負いながら、長い間じっと坐っていた。すると谷間から吹き上げる風が、昔の通り彼の耳へ、聞き慣れた囁《ささや》きを送って来た。「素戔嗚よ。お前は何をさがしているのだ。おれと一しょに来い。おれと一しょに来い。素戔嗚よ。……」
彼はようやく立ち上った。そうしてまだ知らない国の方へ、おもむろに山を下《くだ》り出した。
その内に朝焼の火照《ほて》りが消えると、ぽつぽつ雨が落ちはじめた。彼は一枚の衣《ころも》のほかに、何もまとってはいなかった。頸珠《くびだま》や剣《つるぎ》は云うまでもなく、生捉《いけど》りになった時に奪われていた。雨はこの追放人《ついほうにん》の上に、おいおい烈しくなり始めた。風も横なぐりに落して来ては、時々ずぶ濡れになった衣の裾を裸《はだか》の脚へたたきつけた。彼は歯を食いしばりながら、足もとばかり見つめて歩いた。
実際眼に見えるものは、足もとに重なる岩だけであった。そのほかは一面に暗い霧が、山や谷を封じていた。霧の中では風雨の音か、それとも谷川の水の音か、凄《すさま》じくざっと遠近《おちこち》に煮えくり返る音があった。が、彼の心の中には、それよりもさらに凄じく、寂しい怒が荒れ狂っていた。
二十四
やがて足もとの岩は、湿った苔《こけ》になった。苔はまた間もなく、深い羊歯《しだ》の茂みになった。それから丈《たけ》の高い熊笹《くまざさ》に、――いつの間にか素戔嗚《すさのお》は、山の中腹を埋《うず》めている森林の中へはいったのであった。
森林は容易に尽きなかった。風雨も依然として止まなかった。空には樅《もみ》や栂《とが》の枝が、暗い霧を払いながら、悩ましい悲鳴を挙げていた。彼は熊笹を押し分けて、遮二無二《しゃにむに》その中を下って行った。熊笹は彼の頭を埋めて、絶えず濡れた葉を飛ばせていた。まるで森全体が、彼の行手を遮《さえぎ》るべく、生きて動いているようであった。
彼は休みなく進み続けた。彼の心の内には相不変《あいかわらず》鬱勃《うつぼつ》として怒が燃え上っていた。が、それにも関らず、この荒れ模様の森林には、何か狂暴な喜びを眼ざまさせる力があるらしかった。彼は草木や蔦蘿《つたかずら》を腕一ぱいに掻《か》きのけながら、時々大きな声を出して、吼《うな》って行く風雨に答えたりした。
午《ひる》もやや過ぎた頃、彼はとうとう一すじの谷川に、がむしゃらな進路を遮られた。谷川の水のたぎる向うは、削《けず》ったような絶壁であった。彼はその流れに沿って、再び熊笹を掻き分けて行った。するとしばらくして向うの岸へ、藤蔓《ふじづる》を編んだ桟橋《かけはし》が、水
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