》を松の枝に結ぶと、身軽く岩の上へ飛び上った。そうして女の肩へ手をかけながら、
「御安心なさい。私は何もあなたの体に、害を加えようと云うのじゃありません。ただ、あなたがこんな所に、泣いているのが不審《ふしん》でしたから、どうしたのかと思って、舟を止めたのです。」と云った。
 女はやっと顔を挙げて、水の上を罩《こ》めた暮色の中に、怯《お》ず怯《お》ず彼の姿を見上げた。彼はその刹那にこの女が、夢の中にのみ見る事が出来る、例えばこの夏の夕明《ゆうあか》りのような、どことなくもの悲しい美しさに溢《あふ》れている事を知ったのであった。
「どうしたのです。あなたは路でも迷ったのですか。それとも悪者にでも浚《さら》われたのですか。」
 女は黙って、首を振った。その拍子《ひょうし》に頸珠《くびだま》の琅※[#「王へん+干」、第3水準1−87−83]《ろうかん》が、かすかに触れ合う音を立てた。彼はこの子供のような、否《いや》と云う返事の身ぶりを見ると、我知らず微笑が唇に上《のぼ》って来ずにはいられなかった。が、女はその次の瞬間には、見る見る恥しそうな色に頬を染めて、また涙に沾《うる》んだ眼を、もう一度|膝《ひざ》へ落してしまった。
「では、――ではどうしたのです。何か難儀な事でもあったら、遠慮なく話して御覧なさい。私に出来る事でさえあれば、どんな事でもして上げます。」
 彼がこう優しく慰めると、女は始めて勇気を得たように、時々まだ口ごもりながら、とにかく一切の事情を話して聞かせた。それによると女の父は、この川上《かわかみ》の部落の長《おさ》をしている、足名椎《あしなつち》と云うものであった。ところが近頃部落の男女《なんによ》が、続々と疫病《えきびょう》に仆《たお》れるため、足名椎は早速|巫女《みこ》に命じて、神々の心を尋ねさせた。すると意外にも、ここにいる、櫛名田姫《くしなだひめ》と云う一人娘を、高志《こし》の大蛇《おろち》の犠《いけにえ》にしなければ、部落全体が一月《ひとつき》の内に、死に絶えるであろうと云う託宣《たくせん》があった。そこで足名椎は已《や》むを得ず、部落の若者たちと共に舟を艤《ぎ》して、遠い部落からこの岩の上まで、櫛名田姫を運んで来た後《あと》、彼女一人を後に残して、帰って行ったと云う事であった。

        三十五

 櫛名田姫《くしなだひめ》の話を聞き終ると、素戔嗚《すさのお》は項《うなじ》を反《そ》らせながら、愉快そうに黄昏《たそがれ》の川を見廻した。
「その高志《こし》の大蛇《おろち》と云うのは、一体どんな怪物なのです。」「人の噂《うわさ》を聞きますと、頭《かしら》と尾とが八つある、八つの谷にも亘《わたる》るくらい、大きな蛇《くちなわ》だとか申す事でございます。」
「そうですか。それは好《よ》い事を聞きました。そんな怪物には何年にも、出合った事がありませんから、話を聞いたばかりでも、力瘤《ちからこぶ》の動くような気がします。」
 櫛名田姫は心配そうに、そっと涼しい眼を挙げて、無頓着な彼を見守った。
「こう申す内にもいつ何時《なんどき》、大蛇が参るかわかりませんが、あなたは――」
「大蛇を退治《たいじ》する心算《つもり》です。」
 彼はきっぱりこう答えると、両腕を胸に組んだまま、静に一枚岩の上を歩き出した。
「退治すると仰有《おっしゃ》っても、大蛇は只今申し上げた通り、一方《ひとかた》ならない神でございますから――」
「そうです。」
「万一あなたがそのために、御怪我《おけが》をなさらないとも限りませんし、――」
「そうです。」
「どうせ私は犠《いけにえ》になるものと、覚悟をきめた体でございます。たといこのまま、――」
「御待ちなさい。」
 彼は歩みを続けながら、何か眼に見えない物を払いのけるような手真似をした。
「私はあなたをおめおめと大蛇の犠《いけにえ》にはしたくないのです。」
「それでも大蛇が強ければ――」
「仕方がないと云うのですか。たとい仕方がないにしても、私はやはり戦うのです。」
 櫛名田姫《くしなだひめ》はまた顔を赤めて、帯に下げた鏡をまさぐりながら、かすかに彼の言葉を押し返した。
「私が大蛇の犠《いけにえ》になるのは、神々の思召《おぼしめ》しでございます。」
「そうかも知れません。しかし犠《いけにえ》になると云う事がなかったら、あなたは今時分たった一人、こんな所に来てはいないでしょう。して見ると神々の思召しは、あなたを大蛇の犠《いけにえ》にするより、反《かえ》って私に大蛇の命を断たせようと云うのかも知れません。」
 彼は櫛名田姫の前に足を止めた。と同時に一瞬間、厳《おごそか》な権威の閃《ひらめ》きが彼の醜《みにく》い眉目の間に磅※[#「石+薄」、第3水準1−89−18]《ぼうはく》したように思われた。
「けれども巫女《みこ》が申しますには――」
 櫛名田姫の声はほとんど聞えなかった。
「巫女は神々の言葉を伝えるものです。神々の謎を解くものではありません。」
 この時突然二頭の鹿が、もう暗くなった向うの松の下から、わずかに薄白《うすじら》んだ川の中へ、水煙《みずけむり》を立てて跳《おど》りこんだ。そうして角《つの》を並べたまま、必死にこちらへ泳ぎ出した。
「あの鹿の慌《あわ》てようは――もしや来るのではございますまいか。あれが、――あの恐ろしい神が、――」
 櫛名田姫はまるで狂気のように、素戔嗚の腰へ縋《すが》りついた。
「そうです。とうとう来たようです。神々の謎の解ける時が。」
 彼は対岸に眼を配《くば》りながら、おもむろに高麗剣《こまつるぎ》の柄《つか》へ手をかけた。するとその言葉がまだ終らない内に、驟雨《しゅうう》の襲いかかるような音が、対岸の松林を震わせながら、その上に疎《まばら》な星を撒《ま》いた、山々の空へ上《のぼ》り出した。
[#地から1字上げ](大正九年五月)



底本:「芥川龍之介全集3」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年12月1日第1刷発行
   1996(平成8)年4月1日第8刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:湯地光弘
1999年8月27日公開
2004年3月13日修正
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