「てへん+毟」、第4水準2−78−12] 《むし》りながら、
「もう瘤《こぶ》は御癒《おなお》りですか。」
「うん、とうに癒った。」
彼は真面目にこんな返事をした。
「生米《なまごめ》を御つけになりましたか。」
「つけた。あれは思ったより利《き》き目があるらしかった。」
若者は※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12] 《むし》った椿の花を噴き井の中へ抛りこむと、急にまたにやにや笑いながら、
「じゃもう一つ、好い事を御教えしましょうか。」
「何だ。その好い事と云うのは。」
彼が不審《ふしん》そうにこう問返すと、若者はまだ意味ありげな笑《えみ》を頬に浮べたまま、
「あなたの頸《くび》にかけて御出でになる、勾玉《まがたま》を一つ頂かせて下さい。」と云った。
「勾玉をくれ? くれと云えばやらないものでもないが、勾玉を貰ってどうするのだ?」
「まあ、黙って頂かせて下さい。悪いようにはしませんから。」
「嫌だ。どうするのだか聞かない内は、勾玉なぞをやる訳には行かない。」
素戔嗚《すさのお》はそろそろ焦《じ》れ出しながら、突慳貪《つっけんどん》に若者の請《こい》を却《しりぞ》けた。すると相手は狡猾《こうかつ》そうに、じろりと彼の顔へ眼をやって、
「じゃ云いますよ。あなたは今ここへ水を汲みに来ていた、十五六の娘が御好きでしょう。」
彼は苦《にが》い顔をして、相手の眉《まゆ》の間を睨《にら》みつけた。が、内心は少からず、狼狽《ろうばい》に狼狽を重ねていた。
「御好きじゃありませんか、あの思兼尊《おもいかねのみこと》の姪《めい》を。」
「そうか。あれは思兼尊の姪か。」
彼は際《きわ》どい声を出した。若者はその容子《ようす》を見ると、凱歌《がいか》を挙げるように笑い出した。
「そら、御覧なさい。隠したってすぐに露《あら》われます。」
彼はまた口を噤《つぐ》んで、じっと足もとの石を見つめていた。水沫《しぶき》を浴びた石の間には、疎《まばら》に羊歯《しだ》の葉が芽ぐんでいた。
「ですから私に勾玉を一つ、御よこしなさいと云うのです。御好きならまた御好きなように、取計らいようもあるじゃありませんか。」
若者は鞭《むち》を弄《もてあそ》びながら、透《す》かさず彼を追窮した。彼の記憶には二三日前に、思兼尊と話し合った、あの古沼のほとりの柳の花が、たちまち鮮《あざやか》に浮んで来た。もしあの娘が尊の姪なら――彼は眼を足もとの石から挙げると、やはり顔をしかめたなり、
「そうして勾玉をどうするのだ?」と云った。
しかし彼の眼の中には、明かに今まで見えなかった希望の色が動いていた。
十五
若者の答えは無造作《むぞうさ》であった。
「何、その勾玉をあの娘に渡して、あなたの思召しを伝えるのです。」
素戔嗚《すさのお》はちょいとためらった。この男の弁舌を弄《ろう》する事は、何となく彼には不快であった。と云って彼自身、彼の心を相手に訴えるだけの勇気もなかった。若者は彼の醜い顔に躊躇《ちゅうちょ》の色が動くのを見ると、わざと冷やかに言葉を継《つ》いだ。
「御嫌《おいや》なら仕方はありませんが。」
二人はしばらくの間黙っていた。が、やがて素戔嗚は頸《くび》に懸けた勾玉《まがたま》の中から、美しい琅※[#「王へん+干」、第3水準1−87−83]《ろうかん》の玉を抜いて、無言のまま若者の手に渡した。それは彼が何よりも、大事にかけて持っている、歿《な》くなった母の遺物《かたみ》であった。
若者はその琅※[#「王へん+干」、第3水準1−87−83]に物欲しそうな眼を落しながら、
「これは立派な勾玉ですね、こんな性《たち》の好い琅※[#「王へん+干」、第3水準1−87−83]は、そう沢山はありますまい。」
「この国の物じゃない。海の向うにいる玉造《たまつくり》が、七日《なぬか》七晩《ななばん》磨いたと云う玉だ。」
彼は腹立たしそうにこう云うと、くるりと若者に背《せな》を向けて、大股に噴《ふ》き井《い》から歩み去った。若者はしかし勾玉を掌《てのひら》の上に載せながら、慌《あわ》てて後を追いかけて来た。
「待っていて下さい。必ず二三日中には、吉左右《きっそう》を御聞かせしますから。」
「うん、急がなくって好いが。」
彼等は倭衣《しずり》の肩を並べて、絶え間なく飛び交《か》う燕《つばくら》の中を山の方へ歩いて行った。後には若者の投げた椿の花が、中高《なかだか》になった噴き井の水に、まだくるくる廻りながら、流れもせず浮んでいた。
その日の暮方《くれがた》、若者は例の草山の楡《にれ》の根がたに腰を下して、また素戔嗚に預けられた勾玉を掌へ載せて見ながら、あの娘に云い寄るべき手段をいろいろ考えていた。するとそこへもう一人の若者が、斑竹《はんちく》の笛《ふえ》を帯へさして、ぶらりと山を下って来た。それは部落の若者たちの中でも、最も精巧な勾玉や釧《くしろ》の所有者として知られている、背《せい》の高い美貌《びぼう》の若者であった。彼はそこを通りかかると、どう思ったかふと足を止めて、楡の下の若者に「おい、君。」と声をかけた。若者は慌てて、顔を挙げた。が、彼はこの風流な若者が、彼の崇拝する素戔嗚の敵の一人だと云う事を承知していた。そこでいかにも無愛想《ぶあいそ》に、
「何か御用ですか。」と返事をした。
「ちょいとその勾玉を見せてくれないか。」
若者は苦《にが》い顔をしながら、琅※[#「王へん+干」、第3水準1−87−83]を相手の手に渡した。
「君の玉かい。」
「いいえ、素戔嗚尊《すさのおのみこと》の玉です。」
今度は相手の若者の方が、苦い顔をしずにはいられなかった。
「じゃいつもあの男が、自慢《じまん》そうに下げている玉だ。もっともこのほかに下げているのは、石塊《いしころ》同様の玉ばかりだが。」
若者は毒口《どくぐち》を利きながら、しばらくその勾玉を弄《もてあそ》んでいたが、自分もその楡の根がたへ楽々と腰を下すと、
「どうだろう。物は相談と云うが、一つ君の計らいで、この玉を僕に売ってくれまいか。」と、大胆な事を云い出した。
十六
牛飼いの若者は否《いや》と返事をする代りに、頬《ほお》を脹《ふく》らせたまま黙っていた。すると相手は流し眼に彼の顔を覗きこんで、
「その代り君には御礼をするよ。刀が欲しければ刀を進上するし、玉が欲しければ玉も進上するし、――」
「駄目ですよ。その勾玉《まがたま》は素戔嗚尊《すさのおのみこと》が、ある人に渡してくれと云って、私に預けた品なのですから。」
「へええ、ある人へ渡してくれ? ある人と云うのは、ある女と云う事かい。」
相手は好奇心を動かしたと見えて、急に気ごんだ調子になった。
「女でも男でも好いじゃありませんか。」
若者は余計なおしゃべりを後悔しながら面倒臭そうにこう答を避けた。が、相手は腹を立てた気色《けしき》もなく、反《かえ》って薄気昧が悪いほど、優しい微笑を漏《も》らしながら、
「そりゃどっちでも好いさ。どっちでも好いが、その人へ渡す品だったら、そこは君の働き一つで、ほかの勾玉を持って行っても、大した差支《さしつかえ》はなさそうじゃないか。」
若者はまた口を噤《つぐ》んで、草の上へ眼を反《そ》らせていた。
「勿論多少は面倒が起るかも知れないさ。しかしそのくらいな事はあっても、刀なり、玉なり、鎧《よろい》なり、乃至《ないし》はまた馬の一匹なり、君の手にはいった方が――」
「ですがね、もし先方が受け取らないと云ったら、私はこの玉を素戔嗚尊へ返さなければならないのですよ。」
「受け取らないと云ったら?」
相手はちょいと顔をしかめたが、すぐに優しい口調に返って、
「もし先方が女だったら、そりゃ素戔嗚の玉なぞは受け取らないね。その上こんな琅※[#「王へん+干」、第3水準1−87−83]《ろうかん》は、若い女には似合わないよ。だから反《かえ》ってこの代りに、もっと派手《はで》な玉を持って行けば、案外すぐに受け取るかも知れない。」
若者は相手の云う事も、一理ありそうな気がし出した。実際いかに高貴な物でも、部落の若い女たちが、こう云う色の玉を好むかどうか、疑わしいには違いなかったのであった。
「それからだね――」
相手は唇《くちびる》を舐《な》めながら、いよいよもっともらしく言葉を継いだ。
「それからだね、たとい玉が違ったにしても、受け取って貰った方が、受け取らずに返されるよりは、素戔嗚も喜ぶだろうじゃないか。して見れば玉は取り換えた方が、反《かえ》って素戔嗚のためになるよ。素戔嗚のためになって、おまけに君が刀でも、馬でも手に入れるとなれば、もう文句はない筈だがね。」
若者の心の中には、両方に刃のついた剣《つるぎ》やら、水晶を削《けず》った勾玉やら、逞《たく》ましい月毛《つきげ》の馬やらが、はっきりと浮び上って来た。彼は誘惑を避けるように、思わず眼をつぶりながら、二三度頭を強く振った。が、眼を開けると彼の前には、依然として微笑を含んでいる、美しい相手の顔があった。
「どうだろう。それでもまだ不服かい。不服なら――まあ、何とか云うよりも、僕の所まで来てくれ給え。刀も鎧《よろい》もちょうど君に御誂《おあつら》えなのがある筈だ。厩《うまや》には馬も五六匹いる。」
相手は飽くまでも滑《なめらか》な舌を弄しながら気軽く楡《にれ》の根がたを立ち上った。若者はやはり黙念《もくねん》と、煮え切らない考えに沈んでいた。しかし相手が歩き出すと、彼もまたその後《あと》から、重そうな足を運び始めた。――
彼等の姿が草山の下に、全く隠れてしまった時、さらに一人の若者が、のそのそそこへ下《くだ》って来た。夕日の光はとうに薄れて、あたりにはもう靄《もや》さえ動いていたが、その若者が素戔嗚だと云う事は、一目見てさえ知れる事であった。彼は今日射止めたらしい山鳥を二三羽肩にかけて、悠々と楡の下まで来ると、しばらく疲れた足を休めて、暮色の中に横たわっている部落の屋根を見下した。そうして独り唇に幸福な微笑を漂《ただよ》わせた。
何も知らない素戔嗚は、あの快活な娘の姿を心に思い浮べたのであった。
十七
素戔嗚《すさのお》は一日一日と、若者の返事を待ち暮した。が、若者はいつになっても、容易に消息を齋《もたら》さなかった。のみならず故意か偶然か、ほとんどその後素戔嗚とは顔も合さないぐらいであった。彼は若者の計画が失敗したのではないかと思った。そのために彼と会う事が恥しいのではないかと思った。が、そのまた一方では、やはりまだあの快活な娘に、近づく機会がないのかも知れないと思い返さずにはいられなかった。
その間に彼はあの娘と、朝早く同じ噴《ふ》き井《い》の前で、たった一度落合った事があった。娘は例のごとく素焼《すやき》の甕《かめ》を頭の上に載せながら、四五人の部落の女たちと一しょに、ちょうど白椿《しろつばき》の下を去ろうとしていた。が、彼の顔を見ると、彼女は急に唇を歪《ゆが》めて、蔑《さげす》むような表情を水々しい眼に浮べたまま、昂然《こうぜん》と一人先に立って、彼の傍を通り過ぎた。彼はいつもの通り顔を赤めた上に、その日は何とも名状し難い不快な感じまで味わされた。「おれは莫迦《ばか》だ。あの娘はたとい生まれ変っても、おれの妻になるような女ではない。」――そう云う絶望に近い心もちも、しばらくは彼を離れなかった。しかし牛飼の若者が、否やの返事を持って来ない事は、人の好い彼に多少ながら、希望を抱かせる力になった。彼はそれ以来すべてをこの未知の答えに懸けて、二度と苦しい思いをしないために、当分はあの噴き井の近くへも立ち寄るまいと私《ひそ》かに決心した。
ところが彼はある日の日暮、天《あめ》の安河《やすかわ》の河原《かわら》を歩いていると、折からその若者が馬を洗っているのに出会った。若者は彼に見つかった事が、明かに気まずいようであった。同時に彼も何となく口が利《き》き悪《にく》い気もちになって、しばら
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