り打たれたりし出した。あたりに草を食《は》んでいた牛や馬も、この騒ぎに驚いて、四方へ一度に逃げて行った。が、それらの飼い主たちは拳を揮《ふる》うのに夢中になって、しばらくは誰も家畜の行方《ゆくえ》に気をとめる容子《ようす》は見えなかった。
 が、その内に素戔嗚と争ったものは、手を折られたり、足を挫《くじ》かれたりして、だんだん浮き足が立つようになった。そうしてとうとうしまいには、誰からともなく算を乱して、意気地《いくじ》なく草山を逃げ下《くだ》って行った。
 素戔嗚は相手を追い払うと、今度は彼の崇拝者が、まだ彼等に未練があるのを押し止《とど》めなければならなかった。
「騒ぐな。騒ぐな。逃げるものは逃がしてやるのが好《い》いのだ。」
 若者はやっと彼の手を離れると、べたりと草の上へ坐ってしまった。彼が手ひどく殴《なぐ》られた事は、一面に地腫《じばれ》のした彼の顔が、明白に語っている事実であった。素戔嗚は彼の顔を見ると、腹立たしい心のどん底から、急に可笑《おか》しさがこみ上げて来た。
「どうした? 怪我《けが》はしなかったか?」
「何、したってかまいはしません。今日と云う今日こそあいつらに、一泡吹かせてやったのですから。――それよりあなたこそ、御怪我はありませんか。」
「うん、瘤《こぶ》が一つ出来ただけだった。」
 素戔嗚はこう云う一言に忌々《いまいま》しさを吐き出しながら、そこにあった一本の楡《にれ》の根本《ねもと》に腰を下した。彼の眼の前には部落の屋根が、草山の腹にさす夕日の光の中に、やはり赤々と浮き上っていた。その景色が素戔嗚には、不思議に感じるくらい平和に見えた。それだけまた今までの格闘《かくとう》が、夢のような気さえしないではなかった。
 二人は草を敷いたまま、しばらくは黙って物静な部落の日暮を見下していた。
「どうです。瘤は痛みますか。」
「大して痛まない。」
「米《こめ》を噛《か》んでつけて置くと好《い》いそうですよ。」
「そうか。それは好い事を聞いた。」

        十一

 ちょうどこの喧嘩《けんか》と同じように、素戔嗚《すさのお》は次第にある一団の若者たちを嫌でも敵にしなければならなくなった。しかしそれが数の上から云うと、ほとんどこの部落の若者たちの三分の二以上の多数であった。この連中は彼の味方が、彼を首領と仰ぐように、思兼尊《おもいかねのみこと》だの手力雄尊《たぢからおのみこと》だのと云う年長者《ねんちょうじゃ》に敬意を払っていた。しかしそれらの尊《みこと》たちは、格別彼に敵意らしい何物も持っていないらしかった。
 殊に思兼尊などは、むしろ彼の野蛮な性質に好意を持っているようであった。現にあの草山の喧嘩から、二三日経ったある日の午後、彼が例のごとくたった一人、山の中の古沼へ魚を釣りに行っていると、偶然そこへ思兼尊が、これも独り分け入って来た。そうして隔意なく彼と一しょに、朽木《くちき》の幹へ腰を下して、思いのほか打融《うちと》けた世間話などをし始めた。
 尊《みこと》はもう髪も髯も白くなった老人ではあるが、部落第一の学者でもあり、予《か》ねてまた部落第一の詩人と云う名誉も担《にな》っていた。その上部落の女たちの中には、尊を非凡な呪物師《まじものし》のように思っているものもないではなかった。これは尊が暇さえあると、山谷《さんこく》の間をさまよい歩いて、薬草などを探して来るからであった。
 彼は勿論思兼尊に、反感を抱くべき理由がなかった。だから糸を垂《た》れたまま、喜んで尊の話相手になった。二人はそこで長い間、古沼に臨んだ柳の枝が、銀《しろがね》のような花をつけた下に、いろいろな事を話し合った。
「近頃はあなたの剛力《ごうりき》が、大分《だいぶ》評判《ひょうばん》のようじゃありませんか。」
 しばらくしてから思兼尊は、こう云って、片頬《かたほ》に笑《えみ》を浮べた。
「評判だけ大きいのです。」
「それだけでも結構ですよ。すべての事は評判があって、始めてあり甲斐《がい》があるのですから。」
 素戔嗚にはこの答が、一向|腑《ふ》に落ちなかった。
「そうでしょうか。じゃ評判がなかったら、いくら私が剛力でも――」
「さらに剛力ではなくなるのです。」
「しかし人が掬《すく》わなくっても、砂金《しゃきん》は始《はじめ》から砂金でしょう。」
「さあ、砂金だとわかるのは、人に掬われてからの上じゃありませんか。」
「すると人が、ただの砂を砂金だと思って掬ったら――」
「やはりただの砂でも砂金になるでしょう。」
 素戔嗚は何だか思兼尊に、調戯《からか》われているような心もちがした。が、そうかと思って相手を見ても、尊の皺《しわ》だらけな目尻には、ただ微笑が宿っているばかりで、人の悪そうな気色《けしき》は少しもなかった。
「何だかそれじゃ砂金になっても、つまらないような気がしますが。」
「勿論つまらないものなのですよ。それ以上に考えるのは、考える方が間違っているのです。」
 思兼尊はこう云うと、実際つまらなそうな顔をしながら、どこかで摘んで来たらしい蕗《ふき》の薹《とう》の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》を嗅《か》ぎ始めた。

        十二

 素戔嗚《すさのお》はしばらく黙っていた。するとまた思兼尊《おもいかねのみこと》が彼の非凡な腕力へ途切《とぎ》れた話頭を持って行った。
「いつぞや力競《ちからくら》べがあった時、あなたと岩を擡《もた》げ合って、死んだ男がいたじゃありませんか。」
「気の毒な事をしたものです。」
 素戔嗚は何となく、非難でもされたような心もちになって、思わず眼を薄日《うすび》がさした古沼《ふるぬま》の上へ漂《ただよ》わせた。古沼の水は底深そうに、まわりに芽《め》ぐんだ春の木々をひっそりと仄《ほの》明るく映していた。しかし思兼尊は無頓着に、時々蕗の薹へ鼻をやって、
「気の毒ですが、莫迦《ばか》げていますよ。第一|私《わたし》に云わせると、競争する事がすでによろしくない。第二に到底勝てそうもない競争をするのが論外です。第三に命まで捨てるに至っては、それこそ愚《ぐ》の骨頂《こっちょう》じゃありませんか。」
「しかし私《わたくし》は何となく気が咎《とが》めてならないのですが。」
「何、あれはあなたが殺したのじゃありません。力競べを面白がっていた、ほかの若者たちが殺したのです。」
「けれども私はあの連中に、反《かえ》って憎《にく》まれているようです。」
「それは勿論憎まれますよ。その代りもしあなたが死んで、あなたの相手が勝負に勝ったら、あの連中はきっとあなたの相手を憎んだのに違いないでしょう。」
「世の中はそう云うものでしょうか。」
 その時|尊《みこと》は返事をする代りに、「引いていますよ」と注意した。
 素戔嗚はすぐに糸を上げた。糸の先には山目《やまめ》が一尾《いちび》、溌溂《はつらつ》と銀のように躍《おど》っていた。
「魚は人間より幸福ですね。」
 尊は彼が竹の枝を山目の顎へ通すのを見ると、またにやにや笑いながら、彼にはほとんど通じない一種の理窟を並べ出した。
「人間が鉤《かぎ》を恐れている内に、魚は遠慮なく鉤を呑んで、楽々と一思いに死んでしまう。私は魚が羨しいような気がしますよ。」
 彼は黙ってもう一度、古沼へ糸を抛《ほう》りこんだ。が、やがて当惑らしい眼を尊へ向けて、
「どうもあなたのおっしゃる事は、私にはよく分りませんが。」と云った。
 尊は彼の言葉を聞くと、思いのほか真面目《まじめ》な調子になって、白い顎髯《あごひげ》を捻《ひね》りながら、
「わからない方が結構ですよ。さもないとあなたも私のように、何もする事が出来なくなります。」
「どうしてですか。」
 彼はわからないと云う口の下から、すぐまたこう尋《たず》ねずにはいられなかった。実際思兼尊の言葉は、真面目とも不真面目ともつかない内に、蜜か毒薬か、不思議なほど心を惹《ひ》くものが潜《ひそ》んでいたのであった。
「鉤《かぎ》が呑めるのは魚だけです。しかし私も若い時には――」
 思兼尊の皺《しわ》だらけな顔には、一瞬間いつにない寂しそうな色が去来した。
「しかし私も若い時には、いろいろ夢を見た事がありましたよ。」
 二人はそれから久しい間、互に別々な事を考えながら、静に春の木々を映している、古沼の上を眺めていた。沼の上には翡翠《かわせみ》が、時々水を掠《かす》めながら、礫《こいし》を打つように飛んで行った。

        十三

 その間もあの快活《かいかつ》な娘の姿は、絶えず素戔嗚《すさのお》の心を領していた。殊に時たま部落の内外で、偶然彼女と顔を合わせると、ほとんどあの山腹の柏《かしわ》の下で、始めて彼女と遇《あ》った時のように、訳もなく顔が熱くなったり、胸がはずんだりするのが常であった。が、彼女はいつも取澄まして、全然彼を見知らないかのごとく、頭を下げる容子《ようす》も見せなかった。――
 ある朝彼は山へ行く途中、ちょうど部落のはずれにある噴《ふ》き井《い》の前を通りかかると、あの娘が三四人の女たちと一しょに、水甕《みずがめ》へ水を汲《く》んでいるのに遇《あ》った。噴き井の上には白椿《しろつばき》が、まだ疎《まばら》に咲き残って、絶えず湧きこぼれる水の水沫《しぶき》は、その花と葉とを洩《も》れる日の光に、かすかな虹《にじ》を描いていた。娘は身をかがめながら、苔蒸《こけむ》した井筒《いづつ》に溢《あふ》れる水を素焼《すやき》の甕《かめ》へ落していたが、ほかの女たちはもう水を汲《く》み了《お》えたのか、皆甕を頭に載せて、しっきりなく飛び交《か》う燕《つばくら》の中を、家々へ帰ろうとする所であった。が、彼がそこへ来た途端《とたん》に、彼女は品《ひん》良《よ》く身を起すと、一ぱいになった水甕を重そうに片手に下げたまま、ちらりと彼の顔へ眼をやった、そうしていつになく、人懐しげに口元へ微笑を浮べて見せた。
 彼は例の通り当惑しながら、ちょいと挨拶《あいさつ》の点頭《じぎ》を送った。娘は水甕を頭へ載せながら、眼でその挨拶に答えると、仲間の女たちの後《あと》を追って、やはり釘《くぎ》を撒《ま》くような燕の中を歩き出した。彼は娘と入れ違いに噴井《ふきい》の側へ歩み寄って、大きな掌《たなごころ》へ掬《すく》った水に、二口三口|喉《のど》を沾《うるお》した。沽しながら彼女の眼つきや唇の微笑を思い浮べて、何か嬉しいような、恥かしいような心もちに顔を赤めていた。と同時にまた己《おのれ》自身を嘲《あざけ》りたいような気もしないではなかった。
 その間に女たちはそよ風に領巾《ひれ》を飜《ひるがえ》しながら、頭の上の素焼の甕にさわやかな朝日の光を浴びて次第に噴《ふ》き井《い》から遠ざかって行った。が、間もなく彼等の中からは一度に愉快そうな笑い声が起った。それにつれて彼等のある者は、笑顔を後《うしろ》へ振り向けながら、足も止めずに素戔嗚の方へ、嘲るような視線を送りなぞした。
 噴き井の水を飲んでいた彼は、幸《さいわい》その視線に煩《わずら》わされなかった。しかし彼等の笑い声を聞くと、いよいよ妙に間が悪くなって、今更飲みたくもない水を、もう一杯手で掬って飲んだ。すると中高《なかだか》になった噴き井の水に、意外にも誰か人の姿が、咄嗟《とっさ》に覚束《おぼつか》ない影を落した。素戔嗚は慌《あわ》てた眼を挙げて、噴き井の向うの白椿の下へ、鞭《むち》を持った一人の若者が、のそのそと歩み寄ったのと顔を合せた。それは先日草山の喧嘩に、とうとう彼まで巻添《まきぞ》えにした、あの牛飼《うしかい》の崇拝者であった。
「お早うございます。」
 若者は愛想《あいそ》笑いを見せながら、恭《うやうや》しく彼に会釈《えしゃく》をした。
「お早う。」
 彼はこの若者にまで、狼狽《ろうばい》した所を見られたかと思うと、思わず顔をしかめずにはいられなかった。

        十四

 が、若者はさり気《げ》ない調子で、噴き井の上に枝垂《しだ》れかかった白椿の花を※[#
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