この娘に遇《あ》ったのは、やはりあの山腹の柏《かしわ》の梢《こずえ》に、たった一人上っていた時であった。彼はその日も茫然と、目の下に白くうねっている天《あめ》の安河《やすかわ》を眺めていると、意外にも柏の枝の下から晴れ晴れした女の笑い声が起った。その声はまるで氷の上へばらばらと礫《こいし》を投げたように、彼の寂しい真昼の夢を突嗟《とっさ》の間《あいだ》に打ち砕いてしまった。彼は眠を破られた人の腹立たしさを感じながら、柏の下に草を敷いた林間の空き地へ眼を落した。するとそこには三人の女が、麗《うら》らかな日の光を浴びて、木の上の彼には気がつかないのか、頻《しきり》に何か笑い興じていた。
 彼等は皆竹籠を臂《ひじ》にかけている所を見ると、花か木の芽か山独活《やまうど》を摘みに来た娘らしかった。素戔嗚はその女たちを一人も見知って居なかった。が、彼等があの部落の中でも、卑《いや》しいものの娘でない事は、彼等の肩に懸《かか》っている、美しい領巾《ひれ》を見ても明かであった。彼等はその領巾を微風に飜《ひるがえ》しながら、若草の上に飛び悩んでいる一羽の山鳩《やまばと》を追いまわしていた。鳩は女たちの手の間を縫って、時々一生懸命に痛めた羽根をばたつかせたが、どうしても地上三尺とは飛び上る事が出来ないようであった。
 素戔嗚は高い柏の上から、しばらくこの騒ぎを見下していた。するとその内に女たちの一人は臂に懸けた竹籠もそこへ捨てて、危く鳩を捕えようとした。鳩はまた一しきり飛び立ちながら、柔かい羽根を雪のように紛々とあたりへ撒《ま》き散らした。彼はそれを見るが早いか、今まで跨《またが》っていた太枝を掴《つか》んで、だらりと宙に吊《つ》り下った。と思うと一つ弾《はず》みをつけて、柏の根元の草の上へ、勢いよくどさりと飛び下りた。が、その拍子《ひょうし》に足を辷《すべ》らせて、呆気《あっけ》にとられた女たちの中へ、仰向《あおむ》けさまに転がってしまった。
 女たちは一瞬間、唖《おし》のように顔を見合せていたが、やがて誰から笑うともなく、愉快そうに皆笑い出した。すぐに草の上から飛び起きた彼は、さすがに間の悪そうな顔をしながら、それでもわざと傲然《ごうぜん》と、女たちの顔を睨《にら》めまわした。鳩はその間に羽根を引き引き、木の芽に煙っている林の奥へ、ばたばた逃げて行ってしまった。
「あなたは一体どこにいらしったの?」
 やっと笑い止んだ女たちの一人は蔑《さげす》むようにこう云いながら、じろじろ彼の姿を眺めた。が、その声には、まだ抑え切れない可笑《おか》しさが残っているようであった。
「あすこにいた。あの柏の枝の上に。」
 素戔嗚は両腕を胸に組んで、やはり傲然と返事をした。

        八

 女たちは彼の答を聞くと、もう一度顔を見合せて笑い出した。それが素戔嗚尊《すさのおのみこと》には腹も立てば同時にまた何となく嬉しいような心もちもした。彼は醜い顔をしかめながら、故《ことさら》に彼等を脅《おびやか》すべく、一層|不機嫌《ふきげん》らしい眼つきを見せた。
「何が可笑《おか》しい?」
 が、彼等には彼の威嚇《いかく》も、一向効果がないらしかった。彼等はさんざん笑ってから、ようやく彼の方を向くと、今度はもう一人がやや恥しそうに、美しい領巾《ひれ》を弄《もてあそ》びながら、
「じゃどうしてまた、あすこから下りていらしったの?」と云った。
「鳩《はと》を助けてやろうと思ったのだ。」
「私《あたし》たちだって助けてやる心算《つもり》でしたわ。」
 三番目の娘は笑いながら、活《い》き活《い》きと横合いから口を出した。彼女はまだ童女の年輩から、いくらも出てはいないらしかった。が、二人の友だちに比べると、顔も一番美しければ、容子《ようす》もすぐれて溌溂《はつらつ》としていた。さっき竹籠を投げ捨てながら、危く鳩を捕えようとしたのも、この利発《りはつ》らしい娘に違いなかった。彼は彼女と眼を合わすと、何故《なぜ》と云う事もなく狼狽《ろうばい》した。が、それだけに、また一方では、彼女の前にその慌《あわ》て方を見せたくないと云う心もちもあった。
「嘘をつけ。」
 彼は一生懸命に、乱暴な返事を抛《ほう》りつけた。が、その嘘でない事は、誰よりもよく彼自身が承知していそうな気もちがしていた。
「あら、嘘なんぞつくものですか。ほんとうに助けてやる心算《つもり》でしたわ。」
 彼女がこう彼をたしなめると、面白そうに彼の当惑《とうわく》を見守っていた二人の女たちも、一度に小鳥のごとくしゃべり出した。
「ほんとうですわ。」
「どうして嘘だと御思い?」
「あなたばかり鳩が可愛《かわい》いのじゃございません。」
 彼はしばらく返答も忘れて、まるで巣を壊《こわ》された蜜蜂《みつばち》のごとく、三方から彼の耳を襲って来る女たちの声に驚嘆していた。が、やがて勇気を振い起すと、胸に組んでいた腕を解いて、今にも彼等を片っ端から薙倒《なぎたお》しそうな擬勢《ぎせい》を示しながら、雷《いかずち》のように怒鳴りつけた。
「うるさい。嘘でなければ、早く向うへ行け。行かないと、――」
 女たちはさすがに驚いたらしく、慌《あわ》てて彼の側《かたわら》を飛びのいた。が、すぐにまた声を立てて笑いながら、ちょうど足もとに咲いていた嫁菜《よめな》の花を摘み取っては、一斉《いっせい》に彼へ抛りつけた。薄紫の嫁菜の花は所嫌わず紛々と、素戔嗚尊の体に降りかかった。彼はこの※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》の好い雨を浴びたまま、呆気《あっけ》にとられて立ちすくんでいた。が、たちまち今怒鳴りつけた事を思い出して、両腕を大きく開くや否や、猛然と悪戯《いたずら》な女たちの方へ、二足《ふたあし》三足《みあし》突進した。
 彼等はしかしその瞬間に、素早く林の外へ逃げて行った。彼は茫然と立ち止《どま》ったなり、次第に遠くなる領巾《ひれ》の色を、見送るともなく見送った。それからあたりの草の上に、点々と優しくこぼれている嫁菜の花へ眼をやった。すると何故《なぜ》か薄笑いが、自然と唇《くちびる》に上《のぼ》って来た。彼はごろりとそこへ横になって、芽をふいた梢の向うにある、麗《うら》らかな春の空を眺めた。林の外ではかすかながら、まだ女たちの笑い声が聞えた。が、間もなくそれも消えて、後《あと》にはただ草木の栄《さかえ》を孕《はら》んだ、明るい沈黙があるばかりになった。……
 何分《なんぷん》か後《のち》、あの羽根を傷《きずつ》けた山鳩は、怯《お》ず怯《お》ずまたそこへ還《かえ》って来た。その時もう草の上の彼は、静な寝息を洩らしていた。が、仰向《あおむ》いた彼の顔には、梢から落ちる日の光と一しょに、未だに微笑の影があった。鳩は嫁莱の花を踏みながら、そっと彼の近くへ来た。そうして彼の寝顔を覗くと、仔細らしく首を傾けた。あたかもその微笑の意味を考えようとでもするように。――

        九

 その日以来、彼の心の中には、あの快活な娘の姿が、時々鮮かに浮ぶようになった。彼は前にも云ったごとく、彼自身にもこう云う事実を認める事が恥しかった。まして仲間の若者たちには、一言《ひとこと》もこの事情を打ち明けなかった。また実際仲間の若者たちも彼の秘密を嗅《か》ぎつけるには、余りに平生《へいぜい》の素戔嗚《すさのお》が、恋愛とは遥《はるか》に縁の遠い、野蛮《やばん》な生活を送り過ぎていた。
 彼は相不変《あいかわらず》人を避けて、山間の自然に親しみ勝ちであった。どうかすると一夜中《ひとよじゅう》、森林の奥を歩き廻って、冒険を探す事もないではなかった。その間に彼は大きな熊や猪《しし》などを仕止めたことがあった。また時にはいつになっても春を知らない峰を越えて、岩石の間に棲《す》んでいる大鷲《おおわし》を射殺しにも行ったりした。が、彼は未嘗《いまだかつて》、その非凡な膂力《りょりょく》を尽すべき、手強《てごわ》い相手を見出さなかった。山の向うに穴居《けっきょ》している、慓悍《ひょうかん》の名を得た侏儒《こびと》でさえ彼に出合う度毎に、必ず一人ずつは屍骸《しがい》になった。彼はその屍骸から奪った武器や、矢先にかけた鳥獣を時々部落へ持って帰った。
 その内に彼の武勇の名は、益々多くの敵味方を部落の中につくって行った。従って彼等は機会さえあると、公然と啀《いが》み合う事を憚《はばか》らなかった。彼は勿論出来るだけ、こう云う争いを起させまいとした。が、彼等は彼等自身のために、彼の意嚮《いこう》には頓着なく、ほとんど何事にも軋轢《あつれき》し合った。そこには何か宿命的な、必然の力も動いていた。彼は敵味方の反目に不快な感じを抱きながら、しかもその反目のただ中へ、我知らず次第に引き込まれて行った。――
 現に一度はこう云うことがあった。
 ある麗《うらら》かな春の日暮、彼は弓矢をたばさみながら、部落の後に拡がっている草山《くさやま》を独《ひと》り下《くだ》って来た。その時の彼の心の中《うち》には、さっき射損じた一頭の牡鹿《おじか》が、まだ折々は未練がましく、鮮《あざや》かな姿を浮べていた。ところが草山がやや平《たいら》になって、一本の楡《にれ》の若葉の下に、夕日を浴びた部落の屋根が一目に見えるあたりまで来ると、そこには四五人の若者たちが、一人の若者を相手にして、頻《しきり》に何か云い争っていた。彼等が皆この草山へ、牛馬を飼《か》いに来るものたちだと云う事は、彼等のまわりに草を食《は》んでいる家畜を見ても明らかであった。殊にその一人の若者は、彼を崇拝する若者たちの中でも、ほとんど奴僕《ぬぼく》のごとく彼に仕えるために、反《かえ》って彼の反感を買った事がある男に違いなかった。
 彼は彼等の姿を見ると、咄嗟《とっさ》に何事か起りそうな、忌《いま》わしい予感に襲われた。しかしここへ来かかった以上、元《もと》より彼等の口論を見て過ぎる訳にも行かなかった。そこで彼はまず見覚えのある、その一人の若者に、
「どうしたのだ。」と声をかけた。
 その男は彼の顔を見ると、まるで百万の味方にでも遭《あ》ったように、嬉しそうに眼を輝かせながら、相手の若者たちの理不尽《りふじん》な事を滔々《とうとう》と早口にしゃべり出した。何でもその言葉によると、彼等はその男を憎むあまり、彼の飼っている牛馬をも傷《きずつ》けたり虐《いじ》めたりするらしかった。彼はそう云う不平を鳴す間も、時々相手を睨《にら》みつけて、
「逃げるなよ。今に返報をしてやるから。」などと、素戔嗚の勇力を笠に着た、横柄《おうへい》な文句を並べたりした。

        十

 素戔嗚《すさのお》は彼の不平を聞き流してから、相手の若者たちの方を向いて、野蛮《やばん》な彼にも似合わない、調停の言葉を述べようとした。するとその刹那《せつな》に彼の崇拝者は、よくよく口惜《くちお》しさに堪え兼ねたのか、いきなり近くにいた若者に飛びかかると、したたかその頬《ほお》を打ちのめした。打たれた若者はよろめきながら、すぐにまた相手へ掴《つか》みかかった。
「待て。こら、待てと云ったら待たないか。」
 こう叱りながら素戔嗚は、無理に二人を引き離そうとした。ところが打たれた若者は、彼に腕を掴まれると、血迷った眼を嗔《いか》らせながら、今度は彼へ獅噛《しが》みついて来た。と同時に彼の崇拝者は、腰にさした鞭《むち》をふりかざして、まるで気でも違ったように、やはり口論の相手だった若者たちの中へ飛びこんだ。若者たちも勿論この男に、おめおめ打たれるようなものばかりではなかった。彼等は咄嗟《とっさ》に二組に分れて、一方はこの男を囲むが早いか、一方は不慮の出来事に度《ど》を失った素戔嗚へ、紛々と拳《こぶし》を加えに来た。ここに立ち至ってはもう素戔嗚にも、喧嘩に加わるよりほかに途《みち》はなかった。のみならずついに相手の拳が、彼の頭《こうべ》に下《くだ》った時、彼は理非も忘れるほど真底《しんそこ》から一時に腹が立った。
 たちまち彼等は入り乱れて、互に打った
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